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【感想】実業之日本社『少女の友』をモデルに伊吹有喜『彼方の友へ』が描く、出版に懸ける戦時下の人々

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実業之日本社をモデルに、戦時中も雑誌を出版するために奮闘し続けた者たちを描く『彼方の友へ』(伊吹有喜)

とても素敵な作品でした。「戦争」を背景にした物語は、どうしても重苦しい雰囲気になりがちですが、『彼方の友へ』からは随所にキラキラした雰囲気を感じます。描かれているのは、少女雑誌「乙女の友」を全身全霊で出版し続けようとする者たち。彼らは戦時下に生きており、そういう世界においては真っ先に「不要不急」と判断されてしまうだろうモノを作り続けようとするのです。世の中の風潮的に「最も不要」と判断され得るモノを、それでも「必要な人は必ずいる」と信じて奮闘する者たちの姿からは、どんな仕事・創作にも通ずる「芯」みたいなものを強く実感させられました。

本書は「大和之興行社」という出版社を舞台に展開される物語ですが、そこにはモデルがあります。それが、本書『彼方の友へ』を出版する実業之日本社です。作中人物たちが出版を目指す雑誌「乙女の友」は、実業之日本社がかつて発行していた伝説の雑誌「少女の友」がモデルなのだといいます。モデルになっている出版社から小説が発売されているという点で、作品のリアリティはかなり高いはずだと感じるでしょう。どこまで「リアル」を取り込んでいる作品なのか、私には判断できませんが、「かつてこういう時代があったのだろう」という萌芽のようなものは、作中に漂っているように感じました。

「戦争」という言葉で捉えてしまうと、どうしても遠いものに感じられてしまう

私たちは様々な形で「戦争」に触れる機会があります。歴史の授業や物語、あるいはニュース映像などです。そして多くの人が、それらに触れることで、「戦争の悲惨さ」を理解し、「戦争を止めよう」という意識を持つようになるでしょう。それによって世界が平和になっていくというのはその通りだとも思います。

ただやはり、「戦争」という言葉で括られると、どうしても「今の自分には遠い世界」に感じられてしまいもするはずです。

そういう意味で本書は、私たちに違った感覚を与えてくれる作品だと言っていいでしょう。

『彼方の友へ』は先程も少し触れた通り、「戦時下において『出版』に奮闘する者たち」が描かれる物語です。つまり、「戦争そのもの」が直接的に描かれるわけではありません。もちろん、「戦争」は背景として非常に重要なものですが、しかしある意味では「日常を構成する要素の1つに過ぎない」と言うことも可能なのです。

そしてそういう物語に触れることで、「戦争」の捉え方が少し変わってくるだろうと思います。「日常の喪失」という見方です。「戦争」というのは結局のところ、「当たり前の『日常』を失ってしまうこと」なのだと改めて感じました。

私たちは普段、「日常」に対して「そこにある」という感覚すら抱くことはないと思います。空気のようなもので、あるかどうかなど考える余地もないほど、そこにあって当然みたいに感じているはずです。「戦争」が起これば、そんな当たり前のものが、突如奪われてしまいます。

そして『彼方の友へ』においては、そんな「日常」の象徴が「少女雑誌」だというわけです。

(雑誌の付録である)小道具の外国趣味もほどほどに。現実から目をそむけて、叙情的なものに溺れるのは読者の心を脆弱にする。

ねえ、間違っていてよ。あなた方の誰も、お父様やお兄様が戦地に行っていないの? 恥ずかしいと思わなくって? 自分の身を飾ることばかり考えて。

「戦時下」を経験したことがないので想像するしかありませんが、戦争中は総力戦だろうし、いわゆる「贅沢は敵だ」という考え方が優位になってしまうものでしょう。何を以って「贅沢」なのかはその時々で変わるでしょうが、「少女雑誌」は恐らく、どんな時代のどんな戦時下においても「贅沢」と判断され得るものだと思います。

そしてだからこそ、逆の発想をすれば、「『少女雑誌』が残っていれば、まだ『日常』は完全には失われていない」という受け取り方も出来るかもしれません。もちろん、別に「少女雑誌」じゃなくてもいいでしょう。人それぞれ、何に「日常」を感じるかは違うはずだからです。大事なのは、「『日常』が失われていく大きな流れの中にあって、小さくてもいいから堰のような役割を果たす何かが身近に存在するかどうか」だと思っています。

そして、こういう捉え方をすることで、どうしても遠い存在に感じられてしまう「戦争」が、少しは身近なものに感じられるかもしれません。何故なら、私たちは「未来に希望を抱けない世界」に生きているからです。「戦争」と同列に扱うなと怒られるかもしれませんが、私は「『戦争』を経験してないんだから仕方ない」と開き直りたいと思います。なかなか明るい未来を描きにくくなっているだろう今の日本で生きることは、ごく一部の人を除いて「じわじわと『日常』が失われていく」のに近いかもしれません。そしてだからこそ、「堰のような何か」を求める気持ちを多くの人が持っているのではないかとも思うのです。

戦時下と現代とでは状況はまったく異なりますが、それでも、「『少女雑誌』のような何か」を求める気持ちは共通していると言えるのではないかと思います。

「失われゆく日常」を堰き止める存在として「少女雑誌」が描かれる

希望です。新しい靴や服がなくても、ひもじくても、そこに読み物や絵があれば、少しは気持ちもなぐさめられる。明日へ向かう元気もわいてきます。

先程、「少女雑誌」を「現実から目をそむけて」「自分の身を飾ることばかり」と非難する文章を引用しましたが、やはりそれは短絡的な捉え方だと言わざるを得ないでしょう。それがどんなものであれ、「沈んだ気持ちを慰めてくれるもの」であれば、それは「単なるモノ」でも「贅沢」でもなく、「生きるために必要不可欠なもの」と言っていいはずです。

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