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【呪縛】「良い子」に囚われ人生苦しい。どう見られるかを抜け出し、なりたい自分を生きるために:『わたしをみつけて』(中脇初枝)

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「良い子」というイメージに囚われていた過去

私は「良い子」ではなかった

私は子どもの頃、ずっと「良い子」のフリをしていました。親に何も言われなくても勉強をし、親の言うことは聞き、反抗せず、学校でもほとんど問題を起こさず、非常に優等生的な振る舞いだったと思います。

でも自分では、これは違うなぁとずっと感じていました。

自分がほんとはいい子なんかじゃないことを、わたしは知っていた。
いい子のふりをしていただけ

自分が良い子ではないことは、自分だけははっきりと理解していました。しかし、良い子として振る舞えば振る舞うほど、当たり前ですが、周りからはそういう人だと見られます。

「良い子」という枠組みから抜け出すことがどんどん難しく感じられるようになり、そのことにもの凄く苦しさを抱きながら生きていました。

自分が何を怖がっていたのか、思い出せない

この作品の主人公は捨て子で、そのせいで、また捨てられるのではないかという恐怖から逃れられずにいます。

そんなこと知っていた。一度だけ、ほんとの気持ちを言ってみただけだった。
その一度きりで、自分がいい子じゃなければ、受け入れてもらえないことを知った。
だからこわかった。
わたしがほんとはいい子じゃないとわかっても、おとうさんとおかあさんは、わたしを捨てないでいてくれるんだろうか。
いい子じゃなくても、わたしのことを捨てない?

私はどうだったんだろう? 別に捨て子ではないと思うし、虐待なども別にありませんでした。「良い子にしていなければならない」と感じてしまうような外的要因はなかったと言っていいでしょう。だから今振り返ってみると、不思議に感じます。

ただ、恐らく初めは、「褒められたら嬉しい」みたいなところからスタートしたと思います。

准看だけど、しっかりしてる。
准看だけど、仕事ができる。
わたしを形容する言葉はいつも同じ。
弥生ちゃんは捨て子だけど、いい子ね。
弥生ちゃんは捨て子だけど、優しいね。
こどものころは、いつもそう言われていた。

初めは「嬉しい」からスタートしても、「良い子」であることが当たり前になると今度は、当たり前から外れた時にだけ何か言われてしまいます。たぶんそれが怖かったのでしょう。それまでは、何かすれば「良い子」だと言われていたのに、途中からは、「良い子」の枠から外れた時にしか言及されなくなることが、恐ろしかったんだと思います。

私には恐らく、子どもを育てる機会はないと思いますが、もしそんな可能性があるなら、この点には気をつけようと思っています。「褒めること」は確かに子どもを伸ばす力になると思いますが、その一方で、子どもの足枷になってしまう可能性もあるでしょう。自分の経験から、「褒めること」は慎重にやらないとな、と感じています。

自分のことで精一杯になってしまう

「良い子」として見られることの苦しさの一つに、「他人のことなんて大して考えてないのに、考えてるように受け取られること」です。

わたしは口にしなかっただけ。みんながささやく以上に、冷ややかに神田さんを見ていたのに。
わたしのどこを探したって、そんな優しい気持ちなんかない。

「良い子」だと思われることで、「他人にも優しい、気遣いができる人」という風に扱われることが多くなります。しかし、「良い子」の枠組みにとらわれているだけの人は、実際は自分のことで精一杯です。自分がどうやったら「良い子」の枠から外れずにいられるのかを日々考えてしまうので、他人のことなんか考えてる余裕はありません。

結局、ひとなんてみんな同じ。
自分のことしか考えていない。

「良い子」に見られるために、誰かのことを考えているフリをすることは得意になっていきます。しかし内心では、全然相手のことなんか考えていません。そして、「自分が優しくないことに気づいている」のに「周りから優しいと見られる」ことに苦しさを感じるようになります。

自分の「本当」を見せることの怖さ

「良い子」に囚われてしまうことで、どんどんと、「本来の自分を見せること」に怖さを抱いてしまいます。自分は「良い子」だからここで受け入れてもらえている。じゃあ、自分が心の底から感じている、「良い子」なんかじゃ全然ない感覚を表に出したらどうなる? それでも受け入れてもらえる? そういう恐怖にも恐れるのです。

同じような感覚を持つ人に、大人になってから結構出会ってきました。

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