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【あらすじ】塩田武士『罪の声』が放つ、戦後最大の未解決事件「グリコ・森永事件」の圧倒的”リアル感”

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戦後最大の未解決事件「グリコ・森永事件」の「その後」を描く小説『罪の声』(塩田武士)は、家族の物語である

私はそもそも知らなかった。戦後最大の未解決事件「グリコ・森永事件」において、犯人グループが録音した子どもの声で脅迫を行っていたことを。その事実を私は、本書で知った。そして、そんな本書で描かれる中心的な問いは、「声を使われた子どもは、今どうしているのか?」である。

ノンフィクションなどでは、「未解決事件の加害者家族」を描くことなど、普通は不可能だ。「未解決」なのだから「加害者」も「加害者家族」も知りようがない。本書は、そんな日常ではあり得ない設定の物語であり、現実に起こった事件のリアリティを織り交ぜながら「家族」を描き出す、衝撃の作品だ。

「事実を伝えるノンフィクション」には出来ないことがある

私はノンフィクションやドキュメンタリーによく触れる。「事実」にとても興味があるからだ。子どもの頃から本を読んでいた私にとって、読書の入り口はやはり「物語」だったが、その後「事実」の面白さに気づき、色んな本・映画、そしてニュースなどを通じて、様々な「事実」に圧倒されてきた。

中でも、私が衝撃を受けたのが『殺人犯はそこにいる』だ。このノンフィクションほど、「事実」の凄まじさを実感させられた作品はない。

概要にざっくり触れておこう。著者の清水潔は、「警察が認知していない連続殺人事件」の存在を感知する。しかしその正しさを示すには大きな問題があった。5つの事件の内1つが解決済みだったのだ。有名な「足利事件」である。「足利事件」発生後も、著者が想定する連続殺人事件は続いているので、普通に考えれば「5件が連続殺人事件である」という仮説は成り立たない。

しかし清水潔は、「足利事件が冤罪だったら……?」と考える。そして実際に「足利事件」の冤罪を証明してみせ、さらに独自の取材により、連続殺人事件の真犯人にも辿り着いた。しかし、国家・司法の様々な思惑から、未だにその人物の逮捕には至っていない。そんな、一介の記者が行ったとは思えない壮絶すぎる事件取材を著した作品だ。

確実な「事実」を少しずつ丁寧に積み上げていくことで、国家権力の誤り・嘘を暴き出し、日本の司法では実例がない「無期懲役刑からの無罪判決」を勝ち取った過程は、不謹慎かもしれないが「物語」を読んでいるようなスリリングさがあった。「事実」が持つ凄まじい力を実感させられた作品である。

一方私は、本書『罪の声』から「物語」が持つ力を思い知らされた。「事実」には出来ない、「物語」にしか成し得ないことがあると実感させられたのだ。

それが「余白を補完すること」である。

「事実」は凄まじい力を持つものの、「事実」だけを並べて全体像が把握できるケースなどほとんどないだろう。今私が「事実」と呼んでいるのは、「客観的な証拠によってその正しさが示されていること」ぐらいの意味であり、「映像・音声の記録がある」「複数人の証言に矛盾が生じない」といった状況をイメージしている。そして、そのようにして「正しさ」を示すことができる「事実」というのは決して多くはない。大体の場合、「90%ぐらいの確率で○○のようなことが起こったと言っていいが、100%の確証はない」みたいな感じになってしまうだろう。だから、「事実」だけを並べた場合は「余白」だらけになってしまうというわけだ。

週刊誌やワイドショーなどではその「余白」を、憶測やコメンテーターの感想などで埋めていく。あるいは、卒業文集などを引っ張り出してきて推察したりする。そのようなことが行われるのはやはり、読者や視聴者の中に「余白を補完してほしい」という期待があるからだろう。「分からない」ままでは気持ち悪いから、「なんとなくでもいいから分かった気になりたい」と多くの人が考えるのだろうし、そんな需要を察知して週刊誌やワイドショーも構成されているのだと思う。

しかし、やはり憶測やコメンテーターの感想では、「余白の補完」を十分には行えない。読者も視聴者も、そして恐らく作り手さえもそう感じているだろう。全員がそのことをどこかで理解しながら、それでも「まったく分からない気持ち悪さよりマシ」みたいに考えて現状を許容しているのではないかと思う。

さてそのように考えれば、『罪の声』はまさに、人々が無意識の内に求めている「余白の補完」を見事に実現した、非常に稀有な作品だと言えるだろう。

本書には、新聞記者だった著者が独自に調べた「グリコ・森永事件」に関する様々な「事実」がふんだんに盛り込まれている。本当に、「今ノンフィクションを読んでいるんだっけ?」と錯覚させられるほど、本書には膨大な「事実」が組み込まれているのだ。しかし、先程書いた通り、「事実」だけを並べてもどうしても「余白」が生まれてしまう。ノンフィクションの場合は、その「余白」は「分からないもの」として放置するしかない。「事実ではないもの」をノンフィクションの中に組み込むことは出来ないからだ。しかし「物語」であればそれが出来る。そして『罪の声』は、その「余白の補完」を凄まじいレベルで実現している作品なのだ。

事件全体を100ピースのジグソーパズルに喩えた場合、捜査などで明らかになる「事実」は、多くても80ピース分ぐらいだろう。残り20ピースぐらいは「余白」として残ってしまう。そして『罪の声』の凄まじいところは、その残りの20ピースに相当する「物語の断片」を見事生み出し、「事実」と絶妙に組み合わせて100ピースの事件全体を再構築してしまうことにある。決してノンフィクションではないが、さりとて単なるフィクションでもないという特異的な作品であり、とても異質なものに感じられた。

「未解決事件の加害者家族」を描くという物語の特異さ

ノンフィクションには不可能な点として、もう1点、「未解決事件の加害者家族を描いている」という要素を挙げられるだろう。ノンフィクションであれフィクションであれ、被害者、加害者、被害者家族、加害者家族について描くことは可能だ。しかしノンフィクションには、「未解決事件の加害者家族」を描くことは出来ない。事件自体が未解決ならば当然、犯人も特定されていないわけで、であればその家族についても描きようがないからだ。この点もまた、フィクションだからこその要素と言っていいだろう。

文庫はまた違うかもしれないが、私が読んだ本書の単行本には、帯に「家族に時効はない」「未解決事件の闇には、犯人も、その家族も存在する」と書かれていた。この物語ではとにかく、徹底して「家族」が描かれるというわけだ。

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