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【感想】綿矢りさ原作の映画『ひらいて』は、溢れる”狂気”を山田杏奈の”見た目”が絶妙に中和する

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綿矢りさ原作の映画『ひらいて』では、「狂気の境界線」をあっさり超える木村愛を山田杏奈が絶妙に演じる

まずは内容紹介

高校生の「愛」は、学校でも目立つタイプ。クラス内ヒエラルキー高い系の友達と日々はしゃぎながら、どうということのない日々を過ごす女の子だ

しかしそんな愛は、クラスメイトの「たとえ」のことが気になっている。片想いと言っていい。たとえは勉強ができる優等生だが、寡黙で周囲の人と関わろうとしない。はっきり言って、愛とは住む世界が違う存在だが、そんなたとえに愛は、1年生の頃から想いを寄せている。

ある日彼女は、たとえが読んでいた手紙を盗み見てしまう。どうしても気になったからだ。それは、恋人からのものだった。愛は驚く。付き合っている相手など当然いないものだとばかり思いこんでいたからだ。

たとえの恋人は、「美雪」だった。たとえと同じく学校では目立たないタイプで、若くして糖尿病を患っている。

愛は美雪に近づくことにした。一緒に映画を観て、カラオケをして、そこで彼女にキスをする。

愛は考えた。たとえに近づくことはできない。これまでもずっと近づけなかったのだし、美雪という恋人の存在を知ればなおさらだ。

だったら……。

たとえの恋人を奪えばいい……。

「ヤバい人」が好きな私は「木村愛」に惹かれるし、その「木村愛」を絶妙に演じる「山田杏奈」が見事だった

映画では、先程内容紹介で触れた通り、かなり歪んだ人間関係が展開されます。物語で「三角関係」が描かれることはよくあるでしょうが、この映画では、たとえに向いていた愛の視線が、途中からなんと美雪に移るのです。そんな歪な「三角関係」はなかなかないでしょう。私としては、この設定だけで素晴しいと感じる作品でした。

愛のような歪み方は正直、私の頭の中には存在しなかった類のもので、原作も読まず設定も知らずに観に行ったこともあり、まずその点に驚かされました。「好きな人に近づけないなら、好きな人の恋人に近づいて、その恋人の方を奪えばいい」というのは、常軌を逸しているでしょう。まず、この「異常な歪み方」が、私にはとても素敵なものに感じられました。

しかも、普通には受け入れがたいだろう愛の発想・行動が、この映画ではとても上手く組み込まれているのも良いと思います。愛は別に、「たとえに恋人がいると分かった瞬間に、その恋人の方を奪おうと考えた」わけではありません。最初は、純粋に「たとえの恋人」である美雪に興味があって近づいただけです。しかしその後、愛と美雪の会話がすれ違う場面が出てきます。そして愛は、そのすれ違いをきっかけにして、「そうか、だったら美雪を奪えばいいのか」という思考に切り替わるわけです。この展開は絶妙だと感じました。

映画の中で、まさに愛がそのように考えただろうシーンは、映画全体の中でも非常に印象に残るものでした。「美雪を奪えばいい」と仮に思いついたとしても、普通は実行には移さないでしょう。しかし愛は、そう発想したところから、躊躇なく「奪う」という行動まで突き進んでいくのです。普通は越えないだろう「狂気の境界線」をいともあっさりと越えてしまうわけですが、しかしその「異様さ」は、「『山田杏奈』という可愛らしいビジュアル」によってあまり強く意識されません。

私は、あまり人の「顔」についてあーだこーだ言いたくないのですが、少なくともこの映画に関しては、「『木村愛』という狂気」が成り立っている最大の要因は「山田杏奈の顔」にあると感じました。無表情でいる時の「何を考えているのか分からない雰囲気」、そしてそうでありながら決して「冷たさ」を与えるわけではない絶妙なバランス。これこそが、「狂気の境界線」をあっさりと越えてしまう「木村愛の異様さ」を中和させたポイントだと思います。

それぐらい、「木村愛」をリアルに成立させるのはハードルが高いと感じました。

例えばある場面で愛は、たとえにこんな風に言います。

今この瞬間でさえ、たとえと話せているのは嬉しいよ。たとえの視界に入っているのが嬉しい。

このセリフだけではなかなか「異様さ」をイメージすることは難しいでしょうが、この言葉が発された状況を踏まえると、「よくそんなこと言えるな」と感じてしまうような、常軌を逸したセリフです。普通なら「ドン引き」するでしょう。しかしこの場面でも、木村愛の異様さが嫌悪感を抱かせるほどに強調されないのは、やはり「山田杏奈の顔」の影響がとても大きいと感じています。

「狂気」を「狂気」のまま、つまり「理解できないもの」として描く姿勢が見事

先述した、「たとえの視界に入っているのが嬉しい」と愛が語る場面において、愛の異様さが目立たない理由がもう1つあります。それは、たとえもまた狂気を孕んでいるという点です。2人が放つ「狂気」のタイプは異なりますが、どちらもその内側に「異様さ」を内包しているからこそ、どちらか一方の狂気だけが目立つわけではないとは言えるでしょう。

そう、とにかくこの作品には、「ヤバい人」ばかり出てくるのです。

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