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【意外】映画『殺さない彼と死なない彼女』は「ステレオタイプな人物像」の化学反応が最高に面白い

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よくある学園モノにしか思えなかったが、メチャクチャ面白い作品だった

正直、観てかなり驚きました。映画全体の装いは「若手の人気俳優が多数出てくる学園モノ」という感じで、正直なところ、普段私が観ようと思うタイプの映画ではありません。どうしてこの映画を観に行ったのか自分でも不思議ですが、観て良かったと思いました。

メチャクチャ面白かったです。

元々は4コマ漫画として発表されている作品だそうで、そういう背景を考えると、映画全体にストーリーらしいストーリーがないことは納得できます。「れい」と「なな」は「殺すぞ」「死ぬぞ」と言い続けているだけ。男と上手く関係を築けない「きゃぴ子」を「地味子」が慰めているだけ。「撫子」は「八千代」にずっと告白しているだけ。こんな風に、言葉で説明してしまうと「その何が面白いの?」としか思えないような作品です。

しかしこれが面白い面白い。

まずはざっとストーリーの紹介を

ある高校で3つの物語が同時に展開していく。

小坂れいは留年してしまい、退屈を持て余しまくっている。同学年になったかつての後輩女子からカラオケやボウリングに誘われても「殺すぞ」と返すだけ。基本的に何にも関心を持たずにその退屈さに倦んでいる。

そんなれいが、同じクラスの鹿野ななに興味を持った。ななはゴミ箱に捨てられた蜂の死骸を拾い上げ、花壇に埋めようとする。そんな奇特な行動に惹かれて後をつけるれいは、「死にたい」と言う彼女に「殺してやるよ」と返す。

そんな風に出会った2人は、お互いに罵り合いながら、特に相手を理解しようとするでもなく、しかしそれでも一緒の時間を過ごすようになっていく。

堀田きゃぴ子は、自分のことを「可愛い」と自覚しており、その可愛さを武器に男子に近づくのだが、いつも上手くいかない。上手く行かない理由ははっきりしている。嫌われたり別れを切り出されたりするのが怖くて、自分から離れてしまうのだ。そして、自分でそう決めたのに落ち込んでしまう。

幼稚園の頃からきゃぴ子のことを知っている宮定澄子(地味子)は、きゃぴ子のややこしい性格を理解し、しかし手助けするでも突き放すでもなく、付かず離れずの距離感で関わりを続けている。

大和撫子は、宮定八千代につきまとう。そして、事ある毎に「好き」と伝える。八千代はその度に、自分はあなたのことが好きじゃないし、付き合うこともできないと返す。しかし撫子はつきまといを止めない。

彼女は別に、八千代に振り向いてほしいわけではない。付き合ってほしいとも言っていない。ただ「好き」という気持ちを伝えているだけだ。「私のことを好きになってくれない八千代君が好き」とまで言う。八千代の邪魔をするつもりはまったくなく、ただ傍にいたいという気持ちで溢れている。

八千代としても、もはやどうにもしようがない。邪魔はしないのだしと、程よく関わっている。

この、全然バラバラな物語が、次第に混じり合っていく。

「ステレオタイプなキャラ」で奇妙な関係性を描く化学反応の妙

内容紹介の中で名前を出した6人は全員、「ステレオタイプ的なキャラクター」だと言っていいでしょう。そして、そのステレオタイプさをこれでもかと誇張しながら、ステレオタイプ同士を掛け合わせることで生まれる奇妙さを描き出してい、という点が、この物語の最も面白い点だと感じました。

正直なところ、あまりにもリアリティに欠ける登場人物ばかりなので、普通にしていたらなかなか「共感」までたどり着くのが難しいキャラクターたちだと思います。ただこの物語では、そのステレオタイプさを徹底的に強調して、「まさにそのステレオタイプさのみの存在」という程度まで凝縮しています。この徹底的に「記号化」させたという点が面白い部分です。

さらにその「記号」でしかないキャラクター同士が関わりを持つことで、普通にはあり得ないような奇妙な関係性が生まれることになります。さらに、ステレオタイプさを強調しているが故に、それぞれのキャラクターの「欠落」みたいなものが分かりやすく可視化されるわけです。

その「欠落」に共感してしまう人は多いのではないかと感じました。

れいとななはそれぞれ「殺してやる」「死んでやる」という、フィクションではありがちだろう設定を最後までひたすら続けます。そして彼らが発する言葉は、まるで空気のようにあっさり素通りしていくのです。「殺す」「死ぬ」という言葉の重みは一切なく、「殺す」と言われて嫌悪感を示すことも、「死ぬ」と言われて止めようとする素振りもありません。語尾の「です」「ます」くらい当たり前のように「殺す」「死ぬ」と口にする彼らの奇妙な関係性には、なんだか惹かれてしまいました。

きゃぴ子は「ヤリマン」と聞いてイメージするようなタイプの権化だし、地味子は「地味すぎるが故に目立つ」という究極の誇張がなされます。そして、まったく真逆の2人が関わることで、お互いが持っているものと持っていないものが非常に明確に浮き上がることになるわけです。その過程で、「愛されたい、でも満たされない」というきゃぴ子の厄介さがさらにくっきりすることにもなります。

これ以降は、ブログ「ルシルナ」でご覧いただけます

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