見出し画像

【倫理】アート体験の行き着く未来は?映画『クライムズ・オブ・ザ・フューチャー』が描く狂気の世界(デヴィッド・クローネンバーグ監督)

完全版はこちらからご覧いただけます


アートは常に「狂気」と隣接し得る。映画『クライムズ・オブ・ザ・フューチャー』が示唆する「未来のアート」の姿とは?

「境界線上にある事柄」を挑発的に描き出す作品

全体的には、私にはちょっと難しい映画だった。「未来世界を舞台にしたアート体験」を核に据えた作品であり、そもそも「アート」に対する感受性が優れているわけではない私には難しく感じられたのだと思う。ただ、扱われているテーマはかなり興味深かった。特に、世の中に存在する様々な「境界線上にある事柄」について、かなり挑発的に描き出している感じがあり、大いに思考が刺激されたと言っていいだろう。

「境界線上にあるアート」という意味では、以前観た映画『皮膚を売った男』が印象的だった。「シリア難民の背中に、シェンゲンビザのタトゥーを彫る」というアート作品を中心に展開される物語だ。

この映画ではまず、「人間としては、どの国の国境も跨げない難民」にシェンゲンビザのタトゥーを施すことで、「アート作品としてなら、どの国の国境も跨ぐことが出来る」という皮肉を描き出す。さらに、「人間を『アート』として販売することは、単に人身売買ではないか」という指摘までなされるのだ。

映画で描かれている内容そのものはフィクションだが、この映画にはモデルが存在する。ヴィム・デルボアというアーティストがティム・ステイナーという男性の背中にタトゥーを彫った「TIM」というアート作品が実在するのだ。実際にこの作品は、15万ユーロで落札された。「アートだ」という理屈で「人間」の売買が成立しているのである。そのようなやり方で世の中を「挑発」する手法は見事だと感じたし、本作『クライムズ・オブ・ザ・フューチャー』にも通ずるものがあると感じた。

あるいは、私は以前、Chim↑Pomというアート集団の展覧会に行ったことがある。そして、その際にあまりにも思考を刺激されたので、引用を含めて4万字近い記事を書いた。以下にその記事をリンクしておく。

印象的な展示は多かったのだが、「挑発的」という意味で言うなら「Don’t Follow the Wind」を挙げたい。これは、福島県の「帰宅困難区域」に設置された「誰も観ることが出来ない展示」である。「帰宅困難地域」の制約が解除されるまでの間に、もちろん展示物はどんどん朽ち果てていくし、その様子さえ誰も観ることが出来ない展示なのだ。東日本大震災に際しては、多くのアーティストが「今自分は何をすべきか」について考えさせられたと思うが、Chim↑Pomのこの展示は、その手法の鮮やかさも相まってとても印象に残っている。

また、震災に絡んだChim↑Pomのプロジェクトで言えば、渋谷駅に設置されている岡本太郎作『明日の神話』に「絵を付け足す」というのも素晴らしかったと思う。『明日の神話』が「死の灰を浴びた第五福竜丸」をモチーフにしていることもあって、東日本大震災を踏まえた絵を新たに付け足したのだが、「犯罪行為」にならないためのやり方が細部まで考えられており、アイデア自体も含めとても見事だった。

また、映画『クライムズ・オブ・ザ・フューチャー』では、「アートと生命倫理の境界線」も描かれるのだが、こちらについても既に、かなり現実的な問題として私たちの目の前に存在していると言える。「出生前診断」は割と当たり前に行われているだろうし、「デザイナーベイビー」も技術的には今すぐにでも可能なはずだ。しかし、「デザイナーベイビー」はやはりまだ、科学者を含めて「これは超えてはいけない一線だ」という感覚があるのだろう。技術こそあれ浸透してはいない。

しかし個人的には、時間の問題だろうなと思っている。「倫理」は定まった形を持つのではなく、時代によって大きく変わっていくものだからだ。常に新しい価値観が、古い価値観を押し流していく。その内、「『デザイナーベイビー』の何が悪いの?」と考える世代が現れ、当たり前のものになっていくのだろう。

そして映画『クライムズ・オブ・ザ・フューチャー』では、まさにそのような世界が描かれているのである。いや、そのような価値観を持つ者はごく一部であり、決して「世界全体の共通理解」になっているわけではない。ただ実際のところ、そのような少数者の動きから世の中は変わっていくはずで、そう考えると、映画で描かれていることは決して絵空事とは言えないと思う。

私たちが生きる現実世界にも「境界線上にある事柄」は様々に存在するが、それらをさらに大胆に拡張し、挑発的に描き出しているのが本作なのである。

映画の設定と内容紹介

さてここで、物語の「設定」と「展開」について触れておこう。ただ私の場合、観て内容をきちんと理解できたわけではない。鑑賞後に公式HPに書かれた説明も読んだのだが、それでもよく分からない部分が残ったので、私の憶測も混じっている。全然的外れかもしれないが、そうだとしてもご容赦いただきたい。

映画で描かれるのは、私たちとは異なる「ニュータイプ」と言っていいだろう。人類は、人工的な環境に適応するために急速な「進化」を遂げたのだ。いや、それを「進化」と呼んでいいのかは分からない。最も大きな特徴は「『痛み』の感覚を喪ったこと」なのだが、むしろこれは「退化」と呼ぶべきだろうか。いずれにせよ、映画に登場するのは、私たちとは根本的に異なる性質を持つ存在なのである。

さて、そんな世界において、「ボディーアートのパフォーマンスアーティスト」として絶大な人気を誇っているのがソール・テンサーだ。彼はある特殊な「病」を患っている。これも「病」と呼んでいいのか分からないが、「加速進化症候群」という、「体内に自然と新たな『臓器』が生み出される」という疾患を抱えているのだ。そして、パートナーのカプリースが、その新たに生み出される「臓器」を「摘出する」行為が「アートパフォーマンス」として人気を博しているのである。チケットが発売されると完売してしまうほどの加熱っぷりなのだ。

一方政府は、人類の「変化」を危惧している。「進化」などとは捉えておらず、「暴走」とさえ考えているのだ。そのため、せめて状況を「監視」しようと、「臓器登録所」の設置を決めた。当然のことながら、ソールの他にも「加速進化症候群」を患っている者はいる。そしてこの「臓器登録所」は、そんな彼らの体内から取り出された臓器にタトゥーを施し、保管・記録する目的で設置されたのだ。ソールの体内で生み出される臓器はまだ、「単一の機能を持つもの」に限られているためそこまで危険ではないが、いつ急速な「変化」を見せるかは分からない。政府としては、そのような動向を監視したいというわけだ。

そんな臓器登録所を、ソールは初めて訪れた。ソールは基本的にショーの最中に臓器を取り出してしまうため、これまで臓器登録所に足を運んだことがなかったのだ(しかし映画を観ても、何故この時”初めて”臓器登録所を訪れようと考えたのか、その理由は分からなかった)。臓器登録所を運営している2人は、政府系のNVU(ニュー・バイス・ユニット)に所属しており、臓器登録所は公式には「存在しない」ことになっている「秘密の組織」だ。彼らの任務は「臓器の記録・監視」であり、ソールら「パフォーマンスアーティスト」とは立場が異なる。しかし彼らはソールのパフォーマンスに関心を抱いており、「バレたら職を失う」と口にしつつ、ソールのパフォーマンス会場まで足を運んでしまうのだ。

そんな中、ソールは観客の1人から、「プラスチックを食べていた子どもの死体が手元にあるのだが、ショーで解剖しないか?」と持ちかけられ……。

ソールのパフォーマンスは「アート」と呼べるのか?

映画を観ながらずっと、「ソールのパフォーマンスを『アート』と呼んでいいのだろうか?」という点について考えていた。映画の中でも、同じような疑問を投げかける人物が登場する。

これ以降は、ブログ「ルシルナ」でご覧いただけます

ここから先は

3,185字

¥ 100

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?