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【誠実】想像を超える辛い経験を言葉にするのは不可能だ。それを分かってなお筆を執った作家の震災記

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「現実を伝えること」へのもどかしさを抱きながら東日本大震災を描いた小説家の体験と想い

著者は、東北旅行中に東日本大震災を経験した

小説家である彩瀬まるは、2011年3月11日、東北旅行の2日目で、あるきっかけで知り合った福島の友人と待ち合わせるために電車に乗っていた。

すると「線路沿いが燃えている」とアナウンスが流れ、車体が揺れる。横転するのではないかと思うほどの揺れだ。駅の看板には「新地」という見慣れない駅名が書かれていた。

そこから「著者の東日本大震災」が始まる。電車から離れ、津波から逃げ、避難所へ向かい、その後縁あって個人宅で数日過ごさせてもらい、被災地を離れ自宅へと戻った。

私はこのとき確かに自分の死を思った。全身の血の気が引き、凍え、それなのに頭は痛いくらいに冴えていた。死ねない、死ねない、と鐘を打つように頭の中で繰り返して、死にものぐるいで坂の上の中学校に辿りついた。

彼女は明確に死を意識していたそうだ。

なるべく人のいない方向へ向かった。暖房の入っていない渡り廊下へ出ると、さすがに誰も眠っていない。壁にもたれて、携帯を開いた。家族との最後のメールを眺め、「新規作成」の項目を押す。
がくがくと震える指で遺書のはじめの二行を綴り、私は携帯の画面を閉じた、書けなかった。いやだった。どうしても、どうしても。

そんな著者が、小説ではなく、自分が体験したことを綴った作品として出版したのが本書だ。

そこには、「伝わらない絶望」が詰まっている。

「伝えること」を生業とする小説家が抱いた「伝わらない絶望」

言葉で何かを伝えることを生業としている彼女は、しかし、東日本大震災の経験を言葉にする過程で「伝わらない」という感覚を何度も抱くことになる。

本書は、その「伝わらなさ」に対する著者の葛藤の記録と言ってもいいだろう。そういう意味で、少し特異な震災の記録となっている。この作品では、「起こったことを正確に記録する」ということにももちろん焦点が当たるのだが、それ以上に、「起こった出来事を言葉にする際の限界」や「彼女が言葉にした現実が他の人に的確に伝わらないという事実」に対する著者の葛藤が強く浮かび上がるからだ。

非常に印象的な、こんな場面がある。本書の担当をしてくれたTさんという編集者とのエピソードだ。第3章ではTさんと共に福島入りした際の話が綴られるのだが、第1章「川と星」で書いたある場所へ向かった時に、彼女はこんな風に感じる。

おそらくTさんは、日本で一番「川と星」に目を通してくれた人だろう。そんなTさんにすら、見たものを伝えられていない、書けていないのだと、その横顔を見ながら痛感した

同じように、Tさんと被災地を巡る中で、こんな思いを抱く場面もある。

衝撃を受けた様子で壊れた家々を見上げるTさんを見ながら、私は妙な歯がゆさを感じた。人の手で片付けられた後の風景を見て、ショックを受けないで欲しい。はじめの状態は、もっともっとひどかったんだ。そう思った後すぐに、私があまり手をつけられていない地区にボランティアに行ったことなんてほんの偶然じゃないか、と自省する。けれど、もっと、違うんだ、もっと、見えないものがあった、今見ているものよりも辛い状態だったんだ、と袖をつかみたくなる。もちろん、Tさんにはなんの落ち度もない。難癖をつけているのは私の方だ。混乱したまま、私は無口になった

この文章だけでも、本書が震災を描く他の作品とは違うのではないかとなんとなく伝わるだろう。

さらに著者には、「自分は被災地に住んでいるわけではなく、ただの旅行者でしかない」という、一種の”負い目”みたいなものもあると感じられる。「自分が体験したものはもっと凄まじいのだ」と思うのと同時に、「ただ通りかかっただけの人間が何か書いたところで説得力などあるだろうか?」という感覚もあったはずだ。

そういう中で、彼女はこの文章を書いた。「書かない」という選択もできたはずだ。書かないと自分の中で上手く消化できなかったのかもしれないし、あらゆる葛藤を乗り越えて「この体験・感情は記録として残すべきだ」という使命感に駆られたのかもしれない。その辺りは恐らく著者自身もはっきりとは分からないだろうが、彼女は勇気を持って「書く」という選択をした。

私としては、著者が「震災の体験」と「その体験を書くこと」に対して凄まじい葛藤を感じていたのだということを明確に理解して、彼女の記録に触れたいと思う。

「当時の自分の気持ちを偽らない」という決断と覚悟

本書を読んでいると、「嘘をつかない」という著者の覚悟をありありと感じることができる。

彼女は被災地に数日留まり、なんとか自宅に戻って少し自分の心身が落ち着いた頃に、2泊3日のボランティアに参加することに決める。

出発前夜、支度を終えると少しずつ腹の底が冷たくなり、落ち着かない心地になっていった。
こわかった。二泊三日。また、なにかが起こるのではないか。家に帰って来れなくなるのではないか、ひどい目に遭うのではないか。根拠のない、条件反射のような不安感だ。これからたくさんの人が住み、日々生活している場所に行くというのに、なんて失礼な感覚なんだろう。頭ではわかっている。けれど、止まらない

現場にたどり着き、作業を始めた著者はこんな風に考える。

車を降りたときから、私は防塵マスクをつけていた。うすぼんやりと、怖かったのだ。いくら線量が低くても、やろうと自分で決めたことでも、怖かった。二十七キロという数字がただ怖い。

無意識に息を細めてしまうことが申し訳なくて、やるせなかった

正直、このような自分の感情は、書かなければ誰にもバレない。ボランティアに向かう前の不安も、現場についてからの葛藤も、「書かない」と決めてしまえば表向きには存在しないことになる。彼女にはそうすることだって十分できたはずだ。

しかしそうはしなかった。本書を書く上で一番の動機がどこにあったのか、それは他人がとやかく推測することではないが、彼女は自分で「その時々の自分の感覚・感情を隠さない、偽らない」と決断してこの作品と向き合ったのだと思う。

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