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【発達×英語】「なぜ英語を勉強しているの?」と聞かれたら

  あなたは今「なぜ英語を勉強しているの?」と聞かれたらすぐに答えられますか?
  「海外の人と話したいからです」と答えたときに「AI翻訳で何でも英語にしてくれるから自分で勉強する必要なくない?」と言われたらどうしますか?
  特にASDに批判的な人たちからは「日本語でも人とのコミュニケーションに課題のある人が外国語を学んでも意味ないのでは?」と耳に痛い言葉がかけられそうです。

 実際、私が英語を勉強しているのは海外の人達と話せるようになることが主目的ではありません。今の仕事では英語を話す機会はほとんどないですし、話せなくても全く困らないからです。また、聴覚情報処理障害(APD)持ちのためどんなに英会話を集中的に頑張っても元の聞き取りに限界があるため労力の割に会話力は上がらないかもしれません。

 では何故私は英語を勉強しているのでしょうか?「これまで英語学習に多大な金額と時間と労力をかけたので、忘れるのはもったいない」とか「外国語学習は認知症予防にも良い」のような現実的な理由も多々あるのですが、それら以外にもこれまでの長年の英語学習で次のようなメリットを感じているからです。
・英語を学ぶことで、日本語力がアップする
・英文を書くことで、論理的思考力が鍛えられる
・日本語文を英訳することで、発想を転換する習慣が身につく

 これらについて、もう少し詳しく語ってみたいと思います。

①日本語力がアップする

「英語を勉強しているのに、なぜ日本語力がアップするの?」と思う方もいるかもしれません。
 元々私は(母国語のはずの)日本語もあまり上手くはありませんでした。同時処理認知タイプのために今も時系列に沿って話をすることに苦手意識があるのですが、子供の頃は主語が抜けたり「てにをは」がおかしかったりで文法的に明らかにおかしい日本語を話してたし書いてもいました。多くの人は母国語を覚えるときは特に文法を意識しなくても文法的に自然な話し方を身につけると思うのですが、私は文法や語彙に気をつけて話さないと途端に思いついた単語を並べただけの、カタコトな日本語になってしまいます。
 英語学習を本格的に始めるまでは自分の書く日本語のおかしさについてあまりしっかりと認識していなかったのですが、英文法や英作文の勉強を続けているうちに比較対象として日本語の文法にも意識的になり、以前に私が書いていた日本語の、「てにをは」のおかしさや副詞や動詞など品詞の順番の違和感などが見えてくるようになりました。中学高校の時は自分の書いた文章を見返すということは殆どなかったのですが、大学に入って以降自分の書く日本語を何度も見直し推敲するようになったのは、当時ようやく一般家庭にも普及し始めていたワープロの他に、英語学習に自主的に取り組んだことと無関係ではないと思います。

②論理的思考力が鍛えられる

 私は日頃「論理的に物事を筋道立てて考えるのが苦手なタイプ」と自認しているので、たまにTwitterでフォロワーさんから「Luさんは論理的ですね」と言われるのを不思議に感じていました。「ASDは論理的思考の持ち主」というイメージが広まっているために単に「いかにもあなたはASD的ですね」の婉曲表現なのかな?とも疑っていました。
 少し前までは「社会人経験が長くなって、仕事を通して論理的思考が少しは鍛えられたのかな」ぐらいに思っていましたが、最近になって気づいたのは英検対策で英文ライティングの勉強をしているうちに自分の意見を論理的に展開する「型」をつかめたのも大きかったということです。
 以前の記事にも書いたことがありますが、英語のエッセイにはまず「結論」から始め、次にその結論の根拠となる「理由」を述べ、その理由を「具体例」で肉付けし、最後に再び「結論」で締める、という共通の形式があります。この形式に沿って自分の意見を書く練習をすると、自然と思考の流れもその形式に合わせることができるのです。日本語エッセイの場合は必ずしもこの英語エッセイの「型」にそのままフィットするとは限らず若干のカスタマイズが必要なケースもあるとは思いますが、基本的にはそう大きく外れるものではないと思います。
 このような「型」を小中学生の時に知っていたら、もう少し論理的に考えることに自信が持てるようになっていたかもしれません。

③発想を転換する習慣が身につく

 英文を(母国語である日本語の発想を離れ)英語の発想で書く訓練を通して、自分とは異なる文化を持つ人たちの発想や感覚を想像しようという意識が生まれます。これは、ASD/ADHDを持つ私が多数派である定型発達の人たちの気持ちや考え方を「自分視点から離れて」想像する訓練とどこか共通するものがあるように思います。
 最近私が学習を始めた日英翻訳の通信講座のテキストに「日本人の英訳者は英訳した結果が「翻訳したもの」ではなく「英語として」読まれることを念頭に置」かなければならない、ということが書いてありました。自分の書いた英訳がいくら文法的に正しくても日本語の発想で書かれていればそれは「英語」ではなく「翻訳したもの」に過ぎないわけです。そのような英文を英語圏の人が読んだら「???」と一瞬戸惑い、ちょっと考えてから「あー、(日本語の発想だと)こういうことが言いたかったのか」とやっと納得してくれるかもしれませんが、読むたびにいちいち「こういうことが言いたかったのか」と相手に考えさせるような英文は英語圏の人にとってはストレスフルだろうと思います。そのため、英文を書く時は普段慣れ親しんでいる日本語の発想から離れ、英語の発想を考えながら書くという習慣を身につける必要があるわけです。
 これはちょうど、ASD/ADHD当事者である私が多数派である定型発達者の友人や同僚たちと話をするときに「普段の、素のままの話し方」で話すと相手に違和感を与えてしまうため、「定型発達者が話すような話し方」を意識しているのと似ているように思います。たまに定型発達者に合わせることについて「自分が全否定されるようで嫌だ」と不快感をあらわにするASD当事者の方がいますが、私は定型発達者に合わせることは「英語を話すようなものだ」と割り切っていて、私自身とは異なる定型発達者の感覚や発想を学ぶことは英語の発想を考慮に入れながら英文を書くのと同様に「パズル」や「クイズ」、「頭の体操」のような面白さを感じています。

 このように直接的な英語力の向上に関係ないところでも英語学習・外国語学習は日常生活を送る上で多くのメリットがあると思います。電卓が普及して半世紀以上たっても四則演算の授業がなくならないように、将来AI翻訳の性能が飛躍的に向上して自然な英文に翻訳できるようになっても自力で英語を勉強する価値は決してゼロにはならないと思っています。

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