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文章を書くのが苦手だったこと。

子供の頃、私は典型的な「本の虫」でした。3歳になっても他人にわかる話し言葉が全然出てこないのに本を読むのは大好きで、近所の家に住む歳上のお姉さん達と一緒に遊ぶよりそのお姉さん達のお下がりでもらった箱一杯の絵本を一人家で読むのが私のお気に入りの過ごし方でした。
小学生の時も親に買ってもらった学習用百科事典を第1巻から最終巻まで頑張って読みました。高学年の時には近くの図書館に毎日のように通い興味のおもむくままに本を読み漁ったものです。

にも関わらず、日記や作文を書くのは大の苦手でした。

小学校では国語の授業で書かされる作文の他にクラスの生徒間で回される「学級日誌」や「班日記」(5~6人のグループの中で回る日記)を書かされました。私はこれらを提出期限内に書くことがどうしてもできず、よく先生や級友に叱られたものです。
後で気づいたのですが、クラスには「日記を書きたくてたまらない」人たちというのが少なからずいたのでした。私が何日も何週間も止めてしまってるためになかなか自分のところにノートが回ってこないのでイライラしたのだと思います。

何故私は文章を書くのがこれほどまでに苦手なのか?診断後発達障害について色々調べているうちに、これらも発達障害の特性と深く関係があることに気づきました。ADHDに多い「集中力がない」「すぐ諦めてしまう」「先延ばししてしまう」という問題は算数ドリルなど他の教科にも共通でしたが、それ以外にも作文固有の問題、つまり作文が求めるスキルがADHD/ASDの特性にことごとく合ってないのも大きいと思います。具体的には下記の①~③のようなものが挙げられると思います。  

①オープンクエスチョンに極端に弱い

多くの発達障害者はイエス/ノーで答えられるような具体的な質問に比べ、「~についてどう思う?」のような漠然とした質問(いわゆるオープンクエスチョン)に答えるのを極端に難しく考える傾向にあるように思います。定型発達者の中にはイエス/ノー形式の質問形式にキツい響きを感じるのか、どちらかというと「あなたはどう思う?」というオープンクエスチョンをすることを好む方もいるようなのですが、このような質問をされると私などは答えに詰まってパニックになってしまい「そんなのわかんない」とキレるか、あるいは全く黙ってしまい相手を不安にさせてしまいます。

そしてこの日記や作文というのはまさにオープンクエスチョンの最たるものなのです。読書感想文や社会科見学のレポートみたいに予めテーマの決まっているものであればまだ取り組みやすいのですが、日記の場合は「何について書くか」というところから自分で決めないといけないのでさらにハードルが高くなります。
「自分の思ったことを自由に書けばいいんだよ」と言われるとますます混乱してしまいます。

これは推測なのですが、定型発達者はオープンクエスチョンの無数の選択肢の中から重要度の濃淡を直感的に見分け「その時の状況において本質的に重要なもの」だけを吸い上げる能力が子供のころから備わっているように思います。
これが小学生の頃の私にはとても難しかったのでした。重要なものとそうでないものを見分けろと言われても何しろ私からすれば「どれも同じに見える」ので、書くテーマがいつまでたっても決まらないのです。

②書く順番が決まらない

前の記事にも少し書きましたが、私は認知特性が「視覚優位/同時処理タイプ」に大きく偏っています。同時処理タイプとは、情報の全体像を認識してから細部を把握するタイプであり、この対となるタイプとして情報の一つ一つを順序だてて連続処理する「継次処理タイプ」があります。私はこの「継次処理」が全く苦手です。
そして文章を書くというのは本質的に「継次処理」的なプロセスを要求する作業だと思います。

日記はもちろんのこと、読書感想文にせよ社会科見学レポートのように具体的なテーマが予め与えられている課題であっても、「書き出しがいつまでたっても決まらない」というのが悩みで、家で何時間も原稿用紙に何か書いては消しまた書いては消し、ということを延々と繰り返していました。

ちなみに絵を描く時にこのような葛藤がなかったのは、絵を描く時は順番を気にしなくてよかったからなのだと思います。同時処理タイプにとっては、同じ白紙からのスタートでも文章を書くより絵を描くほうが楽なようです。

今から思えば、作文の形式みたいなのを学校でしっかり習ってなかったのが私の作文嫌いの原因の一つかもしれません。本当は授業の中で説明されてたのに私が聞いてなかったのか、元々日本の学校教育では「型にはまらず自由に書くことが生徒の創造性を育む」と見なされていたのかわかりませんが、小学中学通して作文の形式を学校で習った記憶がありません。

英語のエッセイには、まず「結論」から始め、次にその結論の根拠となる「理由」を述べ、その理由を「具体例」で肉付けし、最後に再び「結論」で締める、という共通の形式があります。アメリカではこの形式を小学校の時から教わるのだそうです。この形式さえ頭に入れておけば文章を書く順番が明確になるので、書き出しで迷わなくて済むのです。日本語の場合はこの順番とは少し違うと思いますが作文における決まった「型」を小学校の時に教わっていれば私の作文に対する態度も随分と違っていたかもしれません。

今私が小中学生ならまず書きたいことをWord等に思いつくままに書きだして、その後文章の順番をカット&ペーストで入れ替えたりして作文全体の体裁を整えてから手書きで原稿用紙に書き写すでしょう。作文を書く心理的ハードルも下がって先延ばしをすることなく期日通りに提出できたのではないかと少し悔しく思います。

③読み手のことを意識した文章になってない

クラスの班日記を書くモチベーションが持てなかった他の理由として、「何故か私の日記の内容に対してだけ担任の先生のコメントがない」というのがありました。他の級友の日記に対しては毎回「それは楽しかったね!」とか「よく頑張ったね!」のような先生のコメントがついていたので、自分だけ無視されたように感じて地味に傷ついていました。
何故私の日記だけ先生のコメントなしでスルーされてしまっていたのでしょう?毎回日記の提出が大幅に遅れていたからというのが主な理由だとは思いますが、どうやらそれだけではなさそうです。

これは私の推測ですが、定型発達者が何か文章を書こうとするときには最初から「読み手の存在」を念頭に置きながら書いているように思えます。自分の文章を見てくれるであろう読み手がどういう性格でどんな興味があるかを予め想像しながら書いているので、読み手にとって読みやすい文章となるのです。
この「読み手の存在」は彼らにとっては特段意識しているわけでなく、会話するのと同じように言葉を発した時点でデフォルトで備わっている感覚なのだと思います。

昔、音楽系のファンジンを何人かのグループで作っていた時に、一人めちゃくちゃ文章が読みやすくてしかも内容的にも楽しい記事を書く人がいました。
彼女に「本当に文章上手いよね~」とほめた時に「多分私、手紙を書くような感じで書いてるんだと思う」と言っていたのですが、おそらくこれが「読み手の存在を念頭に置きながら書く」ということなのでしょう。

この点、私が文章を書く時には「自分の脳内の漠然としたイメージで表されている思考を無理やり言葉に置き換える」ことで精いっぱいなので「私が思ったことを書く」という段階で止まってしまい、定型発達者には当たり前のように備わっている「読み手に伝わるように書く」という視点が文章からポッカリ抜け落ちてしまいます。
今から思うと、小中学生時代に私が書いていた文章は独り言的で読み手にとっては「ふーん、それで?」という感想にしかならなかったのかもしれません。そのような日記については先生もコメントのつけようがなかったのだと思います。

この私の「独り言」スタイルの日記は級友たちから見ても異様だったようで、度々「Luちゃんの日記っていつも自分のことばかりだよね。もっと他の子の日記に興味を持った方がいいよ」と注意されたものです。そのことを何人かの子が班日記に書いていたのでそれを読んだ母からも「そうよ、Luはいつも自分のことしか興味ないから。そういうのは他の子にとっては感じ悪いのよ」とかなり強い調子で叱られたものです。
「え?「他の人の日記の感想を自分の日記の中で書く」なんて決まりがあったの?それは前もって言ってくれなきゃわかんない」と涙目になったものですが、普通の子供は誰かに言われなくても自然に他人の日記の話題に興味を持ち話を広げることができるので、わざわざルールにする必要はなかったのでしょう。

私も今でこそ文章を書く時は「読み手の存在」をできるだけ意識しつつ書いていますが、そのような感覚が小中学生で当たり前のように備わっている定型発達者の能力は凄いなと改めて感心しています。

こんな私ですが、実は小中学校の時の夢は「作家になること」だったのです。どれだけ自分のことがわかってなかったのでしょうか(苦笑)。

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