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「自分エッセイ」に何を書くか

以前の記事で「自分エッセイ」を書くことの効用について取り上げたことがあります。思ったことを「書く」(紙でもスマホでもよい)ことは特に発達当事者にとっては有益だと思います。他者に読んでもらわなくても、自分の気持ちや思考を言語化するだけでストレスから解放されるからです。

でも「何を書いていいのかわからない」と戸惑う発達当事者の方も多いでしょう。特に「自分自身について書く」「自分の気持ちを書く」ことについて抵抗感を覚える当事者も少なくないのではないでしょうか。
私も子供の頃は作文や学級日誌の類が大の苦手でした。以前の記事にも書きましたが「自分の思ったことを自由に書けばいいんだよ」と言われるとますます混乱してしまうのです。
そんな私がどのように「自分エッセイ」にたどり着いたのかを以下に紹介したいと思います。

まずは「自分の好きなもの」について書く

以前の記事で「中学に入って突然「自分が思ったことを文字にする」というマイブームが起こりました。」と書いたことがあります。実はそれは「中学生になったので自然に書く能力が成長した」というよりは「自分が初めて夢中になれるものが見つかった」のと時期が重なっていたからでした。具体的には小学6年生あたりから本格的にはまった洋楽です。毎月少ないお小遣いをやりくりして音楽雑誌を何冊も買い込んで隅から隅まで読んでいるうちに自分でも何か書いてみたくなり、B5のノートやルーズリーフに雑誌を真似したアルバムレビューを書いたり、架空インタビュー記事や架空の編集者座談会を書いたりするようになりました。洋楽に出会うまではこれといった趣味もなく1ページの日記すら書くことが大の苦手だったのに、好きなアーティストやアルバムについて書くことは楽しく、何ページでも書いていられました。

発達障害、特にASDの当事者の場合「自分自身のことについては無口なのに自分が好きなものについてはマニアックなレベルまで饒舌に語ってしまう」ということが往々にしてあると思います。
いわゆる「オタク」の言動としてバカにされがちでありますが、当事者としての感覚で言うと恒常的に抱える漠然とした不安感からダイレクトに「自分自身を語る」ことはどうしても心理的な抵抗があり「自分が好きなものに自分自身を語らせる」ほうが安心するということなのだと思います。

余談ですが、ミュージシャンの中にも「普段の会話よりも自分の曲を通したほうが雄弁になれる/自分自身を出せる」という人が少なからずいるようです。中には「メディア向けのペルソナ」と本当の自分を使い分けることでファンやメディアからの時として過剰になりがちな期待やプレッシャーに対処していると明言している人もいます。
発達当事者として共感できる点が多い所も、ますます洋楽にのめり込む要因の一つであったかもしれません。

「なぜ好きなのか」を考えると自分のことが書ける

洋楽にハマった当初は全てのアーティストが興味の対象で毎週ラジオで全米トップ40を聴くのが楽しみでしたが、そのうち特に自分にとって惹かれるアーティストが出てきます。興味の向け方が「広く浅く」から「狭く深く」に変わるまでそう時間はかかりませんでした。
「何が好きなのか?」をたくさん語っているとそのうち興味の関心は「なぜ好きなのか?」に向かいます。特定のアーティストを好きになるのはそのアーティストのキャラクターや作品が自分自身と共鳴するものが多いからなのだと思います。当時の私にとってはその「共鳴するもの」を言語化するほうが、何もない所からいきなり「自分の思ったこと」を書くよりも心理的抵抗を感じなかったのでした。

中学2年になって次第に「書きたい」と思う対象が洋楽から離れ、学校のこと(周囲に馴染めない疎外感etc.)や将来のこと(他の女の子と同じ道は歩めないかもしれないetc.)のような日常の悩み事を「独り言スタイル」で書くことが増えていきました。これが「自分エッセイ」となったのです。自分の中のネガティブな感情を文字に表すのはとても抵抗がありましたが恥を忍んで「自分の感情と向き合う」訓練にはなったと思います。時々勝手に母親に読まれて「愚痴ばかり書くな」と叱られることがあったのでとても遠回しに書く必要はありましたが…

今から思うとストレスを最も強く感じていた時期に「自分エッセイ」の分量が多くなっていたように思います。人前では決して出せないネガティブな感情(嫉妬、疎外感、歪んだ自尊心etc.)をできるだけ内面に溜めて身体化(体調不良)しないよう文字として吐き出すことを無意識のうちに求めていたのかもしれません。

うつ病だった時期にひたすらブログを書いていた

今から15年以上前に「はてなダイアリー」でブログ記事を10年ほど書いていたことがあります。その時期はちょうどうつ病とパニック障害で休職と復帰を繰り返していた時期と重なりますが、何と1年に300記事以上も書いていた時期が4~5年ありました。
無気力状態なのを抗うつ剤の力で無理やり気力を上げていましたからどうしてもテンションが不自然になりやすく、その分脳内多動もかえって増えてしまった気がします。題材も音楽だけでなくサッカーや語学や文学、さらには健康や政治やフェミニズムのことまで雑多に語っていましたからADHDの特性的に当時の薬があまり合ってなかったのかもしれません。

しかし今から思うとこの「ひたすら思ったことを書き続ける」ことが結果的にうつ症状を改善し数年で薬を卒業できたのではと思っています。うつが改善して職場に完全復帰したころにはブログの更新頻度が激減していました。仕事が忙しくてブログを書く余裕がなかったというのもありますが、ストレスが減り「書くことがあまりなくなった」というのが大きかったように思います。

「書くこと」が脳のデトックスになる

発達当事者は知らず知らずのうちに脳内を「情報でいっぱいにしてしまう」傾向があります。飽きやすく絶えず刺激を求めるADHD特性からウェブ記事やSNSなど「外部からの情報」を過剰に取り込みやすいことに加え、脳内であれこれ雑多に考えてしまう「内部からの情報」も増えやすいので、自分で意識している以上に脳に負担がかかっているのです。
外部からの情報をコントロールする方法は後日記事で取り上げようと思いますが、外部刺激がなくても脳内多動ゆえに勝手に脳内に蓄積してしまう「内部からの情報」は意識的に外に出してやる必要があります。その手段のひとつが「書くこと」なのです。

一般的に「書くこと」は何かを覚えておくため、というイメージがありますがここでは書くのは「忘れるため」です。思ったことをノートやブログの形に残しておけば、脳がいつまでも覚えている必要はないからです。忘れるのが怖ければ後で書いたものを見返せばよいのです。

脳内でグルグルしている思考や感情を一旦言語化して書きだすとスッキリして、その後しばらくすると自然に忘れてしまいます。後で読み返すと「当時の私ってこんなことを考えていたのか」と自分の気持ちを第三者のような視点で客観的にレビューできて、必要があれば「当時の自分の感じ方に何が問題があったのか」を冷静に考えることができます。

「自分エッセイ」は数行のメモ書きでよい

「自分エッセイ」は自分のために書くものですから、それこそ数行のメモ書き程度でよく、完璧な文章にする必要はありません。またTwitterやブログでなく紙の日記帳やノートに書くことを強くお勧めします。スマホの場合はメモ帳アプリかEvernoteのような「自分だけが見れるもの」がよいでしょう。SNSやブログはどうしても他者の視線を意識してしまうため、自分の感情を取り繕ってしまう(リアルな感情のドロドロした部分を「なかったこと」にしてしまう)恐れがあるからです。私も昔の「はてなダイアリー」に読者が全くいなかったときは好き勝手に思ったことを書きたい放題書いていましたが、閲覧数が増えてきてからは読者の存在を意識してしまい思ったことをそのまま書けなくなってしまい初期の気楽さを感じなくなってしまいました。

「自分エッセイ」を続けることは特にASD当事者にとっては感情表現の訓練や自身の感情と向き合うことの訓練にはなりますが、最初から「訓練」を目的としてしまうと続かなくなってしまいます。「何を書いていいのかわからない」あるいは「自分の感情を出すのが怖い」場合は、まずは「脳のデトックス」を主目的に「自分の好きなもの」について存分に書くことから始めてはいかがでしょうか。


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