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「感情の言語化の困難」について。

ASD(自閉スペクトラム症)の特性のひとつに「感情の言語化が苦手」というのがあると言われます。
誰でも子供の頃は感情を上手く言語化することは難しいのですが、定型の子供の場合は成長するに従い感情を言語化するスキルを手に入れるのに対し、ASDの子供は感情そのものを封印することが他人と上手く関わるためのスキルになってしまうのかもしれません。これが習慣化すると年相応の感情表現や感情抑制の力がなかなか身につかず、強いストレスを感じたときに感情が暴発して物を投げつけたり、逆に自分の内側に溜め込んで体調不良を抱えてしまうのです。

成人になってからも、自分の感情を上手にコントロールする定型の人達と違ってASDは感情を「最初からなかったことにしてしまう」ことで他人とのトラブルを回避する傾向があるように思います。感情や思考を言語化するプロセスが定型よりスムーズに行かないので「いっそ最初から感情はなかったことにしよう」と一気にシャットダウンすることで楽になるのだと思います。
職場ではそれで問題ないのですが結婚や恋愛といった高度な感情表現が求められる場面になると途端に壁にぶち当たり相手を失望させてしまいます

これらのことは以前Twitterで語ったことですが、「では私の場合はどうだったのか?」を紹介したいと思います。

泣く事しかできなかった子供時代の私

子供の頃の私はとにかく「泣き虫」でした。
普段は無表情で、言葉が出るのも遅かったので「内向的な子」と見られていたのですが、何かあるとすぐ泣いていたので周りも困ったと思います。何故泣くのか、何が辛い/悲しい/悔しいのか言葉で説明できずただ泣くだけだったのでまさに「犬のおまわりさん」に出てくる「泣いてばかりいる子猫ちゃん」そのままでした。極端な話幼稚園に上がる直前まで「泣く事しかできなかった」ように思います。
今から思うと当時の私の感情は「嫌だ」「痛い」「怖い」「悔しい」「悲しい」のようなネガティブなものが「嬉しい」「楽しい」のようなポジティブなものより圧倒的に多かった気がします。お風呂が怖い、プールが怖い、犬が怖い、虫が怖い、お腹が痛い、転んだところが痛い、髪を切られるのは嫌い、魚は骨があるから嫌い、物を壊してしまって悲しい、ゲームに負けて悔しい等々...「感覚過敏」と「社会的想像力の欠如」からくる不安感に絶えず支配されていたように思います。
「何故泣くのか」を言葉で伝えることができれば親や周りの人も私の感情を受け止め共感なり適切なアドバイスなりできたのだと思いますが、当時の私は自分の気持ちを言葉で伝えることができなかったので周りも困惑し「泣かないで」と言うしかなかったのでしょう。
その周りの反応に対して「泣く理由をきちんと説明しよう」ではなく「泣く事はいけないことなのだ」と自分の感情を否定するという方向に向いてしまったのは私の特性が原因だったかもしれません。

原因不明の頭痛や腹痛を抱えるようになったのは小学校低学年の頃からでした。当時、転校先にうまく馴染むことができず疎外感を抱えていたのが主な原因です。
同級生から無視されたり悪口を言われる生活に耐えきれず一週間ほど小学校を休んだこともあります。半分仮病、半分本当の腹痛でした。
医者に行ってもこれといった異常は見られず「自律神経失調症」と言われていくつかの薬を気休め程度に渡されて帰されるということを繰り返していました。
自分の感情を言葉でうまく表現できず、説明できない感情を最初からなかったことにしてしまう。その封じ込まれた感情が様々な身体化症状となって表に現れたのだと思っています。

口では言いづらい自分の気持ちを日記や作文などで表現できればまだよかったのですが私はこれも大の苦手でした。以前の記事に書いた通り、「あなたはどう思ったか」というオープンクエスチョンに極端に弱かったのが原因です。

「自分エッセイ」が自分の気持ちを表現する練習になった

そんな私の子供時代でしたが、中学に入って突然「自分が思ったことを文字にする」というマイブームが起こりました。なぜ自分は生きづらいのか?なぜ自分は人と違ってしまうのか?をレポート用紙1枚分の「自分エッセイ」にダラダラと毎日のように書くようになりました。
それまで「最初からなかったことにしてしまう」で人間関係を乗り切ろうとしていた私が日頃直視したくない自分の気持ちに向かおうという気になったのかもしれません。私にはまず他者の存在を意識する前に「自分の感情に言葉を当てはめる」作業が必要だったのでした。「自分エッセイ」はその日あったことを書く「日記」というよりはその時その時に自分の脳内にあった関心事を思いついたままに文章にしたもので、要は「壮大な独り言」に過ぎないのでおそらく他の人が読んでも理解不能だっただろうと思います。

それでも何かの拍子にその「自分エッセイ」を読んでくれた同級生たちが「これ面白いね」とほめてくれたことが、それまで壊滅状態だった自己肯定感を少しずつ育ててくれたように思います。彼女たちにとって私の文章が本当に面白かったのかはわかりませんが、言葉の力というのは強力なもので、おだてられるとすぐ木に登ってしまうタイプの私は調子に乗って何冊もノートに書くようになりました。「壮大な独り言」だけで何冊もノートができてしまうのはやはりASD的ではあるかもしれません。

この「自分エッセイをひたすら書く」という作業は自分の気持ちを表現する練習になり、そのうち読み手を意識した「相手に伝える」スタイルのブログへと変わっていきました。子供の頃に散々苦労した、日常の会話でも自分の気持ちをスムーズに相手に伝えられるようになったと感じています。若い頃に散々悩まされてきた体調不良も今はほとんど感じなくなりました。
もちろん定型発達者の方の感情表現に比べれば全然稚拙ではあるのですが、少なくとも若い頃と比べて「何を考えてるのかわからない」「感情がない」という印象は薄れているのではないかと思っています(半分願望ではありますが)。

ここまで読んで、ASD当事者の配偶者や子供たちに「自分エッセイ」を勧めてみたくなる定型発達者の方がいるかもしれません。しかし、人から勧められても「面倒くさい」と抵抗感を覚えたり「なぜそれが必要なのか」と納得するまで動かないのがASDでもあります。私も小学校でやっていた学級日誌や班ノートの類は大の苦手でした。
自分の中に既に困り感があり、何とか改善したいという気持ちがあってはじめて「自分の気持ちの言語化の練習」に関心が向くのだと思います。しかし「どうしたら相手が困り感を持ってくれるのか?」については残念ながら私も明確な答えを持っていません(そこまでする必要があるのか?という疑問もあります)。

「自分の気持ちを自分のためだけに書く」というのは「気持ちを表現したい」という内的欲求があってはじめて関心が向くものだと思っています。

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