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発達障害児で転校生だった私。

私にとって「その時はとても辛いけど、長期的には自分の役に立っている」ものの一つに「転校」があります。
親の仕事の都合で小学校の時に東京から大阪、大阪から東京(最初の小学校とは別)と2回学校を変わっています。
今は母親もフルタイムで仕事を持っている人が多いので父親の単身赴任が増えている印象ですが昔は家族全員で父親の転勤先についていき子供も転校というところが多かったと思います。私の母も専業主婦でしたので父が転勤するたびに家族全員でついていきました。

幼稚園の頃の私はASDと思われる兆候(相手の目を見ない、言葉が出ないetc)はあったようでしたがADHDの特性はまだそんなに顕在化していませんでした(自転車で転倒骨折はありましたが)。
ADHDの特性が表に現れたのは大阪の小学校に転校した小学2年の頃でした。それまでと全く異なる学校環境や生活環境が知らず知らずのうちにストレスになったのかもしれません。

東京の小学校と大阪の小学校では級友たちが話す方言やアクセントも違えば学校ルールも全く違います。当時の私は大きな声で大阪弁を話す級友たちがみんな気が強くて怖いと思っていました。給食の量も東京より多く、全部食べ終わるのはいつも昼食時間を過ぎて昼休みに入ってからでした。何よりも学年の途中で教科書が変わってしまい前の学校で習ってない漢字がテストに出てきてしまうのが困りました。前の学校にはなかった「班日記」を書かされるのも苦痛でした(この「班日記」のトラウマについてはこの記事で詳しく書いています)。当時小学校ではやっていたドッジボールがどうしてもできなくて仲間に入れなかったのもすぐに周りとの適応が難しかった要因だと思います。

そのような環境変化に必死でついていこうとするうちにADHDの特性が悪化し遅刻や忘れ物が目立つようになりました。部屋が汚いと親から度々叱られるようになったのもこの時期からです。授業に集中できずボーっとしては先生から名指しで叱られたこともありました。
何よりも宿題がどうしてもできなかったのが厄介でした。転校先の学校では毎日1ページ12問ほどの算数ドリルを提出することになっていて、忘れた人は罰として教室の後ろに立たされるルールでした。
これを毎日のように忘れて教室の後ろで立っていたのが当時の私です。担任教師もこれには手を焼いたと思います。1回2回忘れるならともかく毎日だと何やら「こんなのくだらない」などと教師に反抗しているような印象を与えたかもしれません。
今から思うと5分ぐらいでできてしまうような単純な計算ドリルだったし後ろに立たされて恥かくぐらいならさっさと宿題をやればいいのにと思ってしまうのですが、多分日中に学校環境に適応するのに必要以上のエネルギーを注ぎ込んで、家に帰ると消耗しきって単純な宿題をする気力さえ全く残っていなかったのだろうと思います。誰でも多少なりとも転校によるストレスは受けると思いますが、私の場合は環境変化に弱く周りに合わせることが苦手なASDの特性が人一倍ストレスを溜め込む原因の一つとなっていたのだろうと思います。

感情の起伏が激しく何かとすぐ泣いたり癇癪を起しては周りを困らせたのもこの時期からでした。遅刻や忘れ物などで人一倍叱られることが多く「どうせ私はバカよ」と自己卑下をする癖がついてしまったのだと思います。同じ社宅に住んでいた同年代の子たちと遊ぼうとしても上手くいかずに孤立することが多かったです。

学校生活は大変でしたが、東京にはなかった人権教育の授業を受けられたことや当時支援級にいて普通級にも1日1時間来ていたダウン症の同級生と友達になったことは貴重な経験です。
また休日には家族と京都や奈良に遊びに行けたのも楽しい思い出です。大阪生活は2年間だけでしたが学んだことはとても多く今でも私の人生に影響を与えていると思っています。

同級生から「大阪に帰れば?」と言われたこと

私が小学4年生の時、父が大阪から東京に転勤になったためまた東京の小学校に転校することになりました。当時、大阪転校前の小学校に戻ると思ってたのですが違う区の小学校になったため少々ガッカリしたことを覚えています。
この時は転校第一日目からやらかしてしまいました。極度に緊張していたあまり最初の自己紹介で「○○ですお願いしますっっ!」と超早口でまくしたてたためクラス中大爆笑。後で同級生から「大阪弁ですごい早口だったからビックリしちゃった、ウケる」と言われたものです。
余談ですが、「ASD児は方言を話さない」という説がありますが私は大阪時代に大阪弁をあっという間に覚え東京に戻ってきた頃にはすっかり大阪弁が身についてしまっていました。家族の中で大阪弁を覚えたのは私だけだったので年齢的な要因もあるように思います。

逆に大阪弁から標準語に戻すのにとても苦労しました。「~やで」→「~だよ」とか「あかん」→「ダメ」みたいに言葉遣いは比較的すぐに直せるのですがアクセントや微妙なイントネーションはどう意識しても直すことが難しく何度も同級生からダメ出しを受けたものです。
それを見かねた当時の担任が「大阪弁と東京弁(標準語)の違いをまとめてクラスで発表したら?」と助け舟を出してくれたのは思うとおりに標準語を話せず落ち込んでいた私にとって救いでした。
今でも「バカ」より「アホ」のほうが私には親しみやすく使いやすいのですが純粋な関東人にとっては「アホ」というのは物凄くきつく聞こえるようですね。

大阪の小学校の時と同様、今度の転校先の東京の小学校でも前の学校と違う学校ルールやカリキュラムに慣れるのにとても苦労しました。いつもビクビクしていて他の同級生と積極的に関わることをせず、昼休みも外で遊ばず一人で過ごすことが多かった記憶です。
そんなある日、ある同級生から「私たち、Luさんの話してたんだ。何か私たちに馴染んでないよねって。そんなに今の学校が嫌なら大阪に帰れば?」と言われて衝撃を受けたことがあります。
多分、いつまでたっても大阪弁が抜けなかったのが「周りに合わせようとしない/自己主張が強すぎる」という印象を与えたうえに、当時の授業の一環で5~6人班単位で行う自由研究の発表準備を手伝わず(どう手伝ったらいいのかわからずオロオロしていた)何もしないで突っ立っていたのが彼らから見ると「やる気がない」「関心がない」「つまんないと思っている」と見えたのだと思います。
受動型ASDの「何をしていいのかわからない」が周りに誤解を与えてしまったのかもしれません。

相変わらず宿題は提出できず、「班日記」(←この学校でもやっていた)は毎回一週間以上も止めてしまい、授業中に当てられても上手く答えられずに泣いてしまうなど問題行動の多い生徒でしたが、それでもイラストを褒められたり小学5年の時にハマった洋楽という共通の趣味を通して少ないながらも友人ができたりと少しずつ自信をつけていけたように思います。

当時の担任は30代の独身女性で「結婚よりも仕事をしたい」と思っていた私にとってロールモデルの一人でした。当時結婚せずずっと仕事を続ける女性はとても少なかったので、彼女の存在は私に勇気を与えてくれたものです。

東京の小学校を卒業後、同級生の多くはそのまま地元の中学校に進学しましたが私はまたまた引越しで千葉の中学校に通うことになりました。そのことはまた後日書こうと思います。

「自分が人と違うのは転校生だから」と思っていた

転校の辛さの一つに「圧倒的なアウェー感」というのがあります。自分以外はお互い昔からの知り合いという環境によそ者として入っていくというのは誰しも不安なものではないでしょうか。転職であればそのようなことは当然織り込み済みでそれが嫌なら最初から転職をしなければ済む話ですが、転校は自分の意志ではないのに突然知らない環境に放り込まれるわけですから余計不安なものだと思います。

「自分だけ周りと違う」という感覚は発達障害の診断がつくずっと前から持っていましたが、子供の頃はそれを「転校が多かったから」と思っていました。
子供の頃に何度も転校や引越しをしていると「自分が何県人かわからなくなる」というのがあると思います。小学~高校という人格形成期を一つの場所で過ごした人は大学進学や就職で他県に住むようになりその後残りの人生の殆どを他県で過ごすことになっても「自分は○○県人だ」という意識が持てると思うのですが、私にはそのようなものがなくいつも心のどこかで「私はよそ者」という感覚を持っています。
発達障害由来の「違和感」が「転校生育ち」という別の要因でマスキングされてしまい元々の原因に長年気づけなかったのは迂闊だったなと我ながら思います。
しかし、原因を勘違いしていたにせよ「自分が周りに合わせないといけない」という意識が持てたのは結果的にはよかったのではないかと思っています。発達障害者が心身を壊してまで定型社会に完璧に合わせる必要はないものの、周りと調和していくための工夫を常日頃から意識するのは有意義なことだと思うからです。

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