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ささやかな日常

昨年の今頃は、何をしていただろうか。
ささやかな日常に大きな変化が起きてみると、その大切さに改めて気付かされる。
自分の生活のルーティンが、普通に続くと思っていた日常が、コロナの影響で変わってしまった。

もう、マスクのない日常は、しばらく戻ってこないだろうし、人と簡単に物理的な距離を縮められなくなってしまった。
ハグしようにも憚られるし、握手でさえもできない。

人間同士の結びつき方が変わっていくのと同時に、出会う人たちも、また変わってきているような気がする。
そうこうしているうちに、AIが台頭してきて「人間くさい」などという言葉は、この世から消えてしまうのではないか・・・。

人間と人間が親しみあったり、憎みあったり、愛しあったり、拒絶されたり、そんな「修行」のために生まれてきているのだと思ったら、この先の時代は、その在り方すら変わるのかもしれない。
人間同士が関わることで生まれる心の機微や、絆や・・・そう言ったものが物語の主題になるならば、この先は?


レイモンド・カーヴァーの作品に出てくるのは、ささやかな日常であり、しかも短編小説なのに、心に残る。
作品に出てくるガレージの様子や、その家のしつらえ・・・文章を読んで自分が想像したものなのに頭の中にある。

内容についても、気をてらったものではないのに、しみじみとする。
完璧ではない終わり方をするのが、私は好きだ。
「隙間」で想像していたものが、「?」で終わったり。
どうとでも取れるような表現が、かえって魅力的であったりする。
それを許してくれるような寛容さが残されている印象なのだ。

アルコール中毒にもなり、そこから復帰して、また作品を残している。
完璧さを求めない作品が、むしろ、人の心を救うことがあるのかな、と思ったりする。

元々「詩人」でもあった作者は、どうとでも想像していい部分を残してくれている気がする。
ほとんどの人は、完璧ではない自分の「未完成な部分」に視点がいってしまう。
それゆえ、きりっとしてない登場人物の日常に、ほっとしたり、共感したり、違和感を覚えたりしながら、しかし、記憶に残るのではないか。

1984年にピューリッツァー賞の候補作となった『大聖堂』では、テレビに出てきた大聖堂について、盲人にどんなものかを説明するために、手を取って一緒に絵を描くうちに、心が繋がっていく男が出てくる。
そして、生まれてから味わったことのない感覚を味わう。
「まったく、これは」
それが、作品の転調となる。

「書かれていないこと」を想像させるのに、まずは物語の中に読者を引き入れなければならない、という前提がある。
それをするために、五感(視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚)の働きを想像させるものが盛り込まれている。
食事(味覚)、麻薬(嗅覚)、テレビ(聴く)、手を取って書く(触覚)そして、盲人(視覚)。

人間の日常は、五感によって満たされたり、研ぎ澄まされたりすることや、また、それが満たされないことで成り立っていることを、普段は思い浮かべもしない。

ささやかな日常を、こんな風に上手に切り取れるなんて、レイモンド・カーヴァーだからできることなのかも知れないけれど。
好きな作家である。








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