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『夜の魂』という本を満月の前に

 まだ、夕方だ。
 雨が降ってきた。
 しっとり降る雨は、家にいる限りは好きである。

 こんな時間だけれど、そして、もう季節外れな感じもするけれど、MALIBUというココナッツリキュールに、グレープフルーツを入れて飲もうと思った。
 明日の朝、5:55に満月になる。
 グレープフルーツって、まん丸お月様みたいでもある。

 MALIBUをパイナップルジュースで割るのも好きなのだけれど、友人のご主人が経営するBarで飲んだ、グレープフルーツで割ったマリブダンサーという飲み物が好きになったのは、もう、かなり昔の話である。

 さて、『夜の魂』というチェット・レイモの本の表紙にも、グレープフルーツのようなお月様がいる。
 表紙は煤けてしまったが、緑色の渦の中に置かれた宇宙。

”ヴェルヴェットとシルクの肌触りを持った文章を紡ぎ出す作家” と評されるチェット・レイモ。

 中の挿絵も、色々な月が出てくる。
 マイケル・マカーディの漆黒の版画に、ぐっと引き込まれる。
 今日は、読んでは雨を窓から覗き、また、読む。
 夜に変わっていく空を横目に、再び、ゆっくりと読みたい本である。


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 夜というのは幻想的である。
 想像力をかき立てる。

 「夜空を観察する技術は、五〇パーセントが視覚の問題で、五〇パーセントが想像力の問題である。」 かつて星空の観察者たちは、視覚に比べてより多くの想像力を交えていた。天空にドラマチックな神話を繰り広げたギリシャ人、星の色にエキゾチックな響きの言葉を添えた一九世紀の天文学者たち。夜空の闇こそは、あらゆるものの起源であると同時に、人間の精神と心を育んできたゆりかごでもあるのだ。チェット・レイモは身のまわりの自然への博物館的観察のまなざしを、想像力によって、はるかかなたの星や銀河へ、宇宙の果てへと結びつける。

 夜の魂を求める巡礼。
 きらきらした言葉が出てくる。

物質は精神のお荷物にすぎなかったのである。

 悟りという言葉が浮かぶ。


 「蛇と梯子」という章には、先祖代々石工を営んできた、友達のアンに対する記述がある。
 石を刻む生業の女性である。

 石膏デッサンのときの光の表現に共通するもののように感じて、好きな部分である。
 石膏像は白い。
 窓からの光。
 また、天井に補助的につけられた蛍光灯からの光。
 光と影、白と黒の表現。
 美大の試験では、石膏像からの位置をくじ引きで決めていた。
 高いイーゼル、低いイーゼル。
 距離によっても、光の見え方は様々である。
 くじを引いた時点で、・・・となる難しい位置がある。

 光がなければ色は識別できないことを考える。
 ものすごく繊細な、陽の光。
 通常は意識していないことに目を向けると、美しい世界がそこに広がる気がする。
 「陰翳礼讃」も浮かんだ。

それに対して、アンは学術肌で思想や芸術や光の世界の住人である。「光が妙な具合に私の眼に入ってくるの」と彼女は主張する。彼女は家具を動かし、壁紙を貼り、ペンキを塗る。そして採光に工夫を凝らすのだが、それは物質に軽快感を持たせるためなのである。彼女は天窓を据え付ける。そして、壁を取りはらい窓を挿入する。クリスマスになると、窓という窓にキャンドルを置くのだ。そして、日の出前に起き、日没とともに眠りに就くように生活を改める。彼女はエミリー・デイケンソンの言う、ニューイングランド特有の「光の一風変わった傾斜」を追求したのだ。「”ふわっとした雰囲気”の中で生活しようとしたのよ」と彼女は言う。「物質は審美的な目的を果たすためにありさえすればいいの。」

 すべての題名が読みたい気持ちにさせる本。
 連休はどこにも出かけないけれど、贅沢な時間である。

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