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「さわる」ように読む

「さわる」ように読む。
この言葉に衝撃を受けた。
ただ、感じるのではなく、さわってみるとは、どのようなことか。


私の家の近くには、修道院や教会が点在している。
そのせいか、駅前の本屋さんの一つの棚には、興味深いものがある。

「目からウロコ 聖書の読み方 レクチオ・ディヴィナ入門」
という女子パウロ会の書を見つけた。

私はクリスチャンではないが、西洋美術史の授業は好きだった。
西洋美術と聖書は切り離すことが出来ない。
ヨーロッパへ行った時も、美術館の他に、教会をいくつも訪ねた。
聖書にあるお話は、そのまま絵画として描かれている。

レクチオ・ディヴィナとは。
古代の修道院では、聖書を読むこと自体が祈りであったという。
聖書を読む時間がそのまま、祈りの時間であったのだという。
レクチオとはラテン語で「読むこと」。ディヴィナは「聖なる」という形容詞。

読み進めていくと、

『一つの言葉に「さわる」ように読む』という項があった。

この箇所を祈りとして読むなら、一つ一つの「言葉」にさわるように読んでください。「言葉」とはまず単語です。「光あれ」と一息で読むのではなく、「光・・・あれ・・・」という感じで読みます。「光あれ」と、すらっと言ってしまうと、「神さまがそう言われた」という筋書きだけになってしまいます。しかし「光・・・あれ・・・」と読むと、「光」という語の質量、「あれ」という語の手ざわりが微かに感じられるでしょう。その質量感は、自分の人生の歩みの中にあった「光」の体験、また日本人、そして人類全体が生きてきた体験につながっています。

愛玩する陶器を手に取って、その重さ、形、手ざわりを確かめるような気持ちだという。

例として、「骨董をいじる」という言い方で説明している。
中国では、陶器は見て鑑賞するものだそうだが、日本は茶道と結びついているせいか、手に持ってさわる。


手に持ってしばらく保っていると、まずその「重さ」が両腕を通して、自分のからだの中に流れ込んできます。また、物には形というものがあるので、さらに手に持っていると、曲線とか凹凸とか、その「形」が両腕を通して流れ込んでくる。さらに、使用されている陶土や釉薬からくる「手ざわり」も流れ込んでくる。そのようにしていると、「ああ、これはこういうものなんだ」と分かった気がします。それは、カタログ的な知識ではなく、親しみと愛情を含んだ分かり方です。

ヨーロッパ人が好む「反芻」というイメージは、レクチオ・ディヴィナにおける忍耐、そして栄養を取るという実利的な側面をよくとらえていますが、聖書の言葉に対する私たちの親しさや愛情をあまり強調しません。陶器をさわるというイメージにはそれがあります。聖書は「キリストのからだ」であると言われます。


「言葉」を「さわる」という感覚が、私にはなかった。

感じるままにイメージすることはあっても、「さわって」みたことはない。
「重さ」「形」「手ざわり」。


これは、話し言葉にも言えることではないか。
大切な人の言葉を「さわる」ように味わう。
そして、そこにあるかのように想定して、大事に手のひらで愛でる。

「重い」言葉には、それように重さの見合う言葉を選んで返す必要があるだろう。
そして、「形」がいびつになりかけていたら、優しく包んであげてはどうか。
「手ざわり」で心の痛みを感じてあげることが出来たなら。

そんなことを考える機会をもらった。
両腕を通して流れ込んでくる、という表現が理解できるのだった。

泣いている人の手を取り、気持ちの部分を掬って返してみると、頷いて涙が止まることがある。
誰かに、気持ちを共有してもらえた時の安心感。
そして、文字通り、手を取って会話することで、腕へ流れ込んでくる何か。

「ああ、これはこういうものなんだ」

と、人と人との間でも、イメージのやりとりができるといい。
親しみと愛情を含んだ分かり方。
そして、「光」の質量を感じたいのだ。








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