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【小説】グウゼンの出会う場所〜ミントと恋EP10〜

連作小説「ミントと恋」のEP9。EP1〜9はマガジン「ミントと恋」にまとめてあります。
最新EPを期間限定無料公開。次のEPが発表になったらそれまでのEPは有料になります。
【これまでのEP】
1.ミントと毒薬2.天使のナリワイ3.スキの幻想4.すぐトナリの境界 
5.温かなカジツ6.たおやかな窓辺7.それぞれのカタチ8.浮遊する金魚タチ9.満月のウラガワ

鈴鹿ミク、の場合 

 学生の頃、自分が大人になったら誰かいい人と巡り合って、結婚して子供ができて、という人生はぼんやりと未来にあった。
 明確に希望していたわけではないし、結婚願望が強い、というほどではなかったけれど、それ以外の選択肢は自分の人生にはないだろう、という予感のようなものが、当たり前にずっと頭の中に棲みついていた。
 新卒で働き始めた会社には、女の子でも野心のある子はいて「結婚なんて絶対したくない。仕事で出世したい」と豪語している子はいたし、一方で「少しでもいい条件の結婚を」と彼氏選びに夢中になっている子もいた。
 そのどちらにも所属していなかった自分は、その頃から「果たして自分に、結婚や出産と言う未来があるのだろうか」わからなくなった。
 社会人になって好きになった人もいたし、食事に行ったり、付き合ったり、大人の関係になったり、そういうことがないわけではない。
 ただ、付き合ってもあまり長く続かず、好きな人にはいい人がいたりして成就することがなく、彼のことを好きになりすぎて毎日数センチ地面から浮いているようなふわふわした時間を過ごすこともなかった。
 自分には恋愛は向いていないのだろうか。

「えー、好きな人に夢中になって盲目になる、とか怖くない?私はそんな恋愛嫌だけど」
 何でもはっきり言う駒井さんは、今日も清々しく断言してポテトフライを口に含む。
「でも一度くらい、そんなの経験してみたかったなぁって思うんです」
「結構さぁ、鈴鹿さんって乙女だよね」
 駒井さんは肩肘をついてからかうような視線を送ってくる。
「もうやめてくださいよぉ。乙女とか」
 苦笑いを返すと、駒井さんは「ポテトフライ美味しいよ、あったかいうちに食べなよ」と皿をこちらに少しずらす。
「まぁでも、結婚焦るような年でもないでしょ」
「そんなことないですよ、もう34ですよ」
「もう34とか嫌味でしょ、もう40過ぎた女に向かって」
 駒井さんは口ほどには気分を害している様子もなく、ワイングラスをくるくると回す。
「鈴鹿さん、この会社に来て何年だっけ」
「8年、ですかね」
 新卒で働いた会社を辞めてから何となく働き始めた会社だったけれど、妙に肌に馴染んだ。居心地も悪くない。
 駒井さんには入社以来ずっと仕事を教えてもらい、とてもお世話になっている。彼女の要点をついた指導は一切の無駄がなく、パートから正社員に採用されたという経歴も納得の、てきぱきとした仕事をする。尊敬する先輩だ。
「そっか、8年かぁ、私も年取るはずだわ」
 やっぱり駒井さんは気にしている風でもなくカラリと笑うとワインをぐっと流し込んだ。
「で、したいの?」
「え?」
「結婚」
「んー」
「あるいは恋愛」
「んー」
「何それ」
 駒井さんの質問に曖昧にしか答えられないほど、今の生活は恋から離れている。
「別にしたくない、わけではないんですけれど」
 決められない、それが一番しっくり来る。

いつかの、彼


 自然と付き合っている人とそれなりの時間を過ごせば結婚そして出産、と流れるような人生が送れる気がしていたけれど、どうやら待っていてもそれは来ないらしい。かと言って仕事に生きるほどには野心がないし、自分で何かやろうと言う気概も才能もない。
 婚活という考えがないわけではないけれど、アプリに登録しようとしても、スタートするまでのあれこれが面倒で結局放置したままだ。
 本当ならば、強く誰かに手を引いてもらってあれよと言う間にいろんなことが過ぎていったとしたら一番楽だっただろうな。こんな風に悩むこともなかった・・・かもしれない。

「まあ結婚って案外悪いもんじゃないからね、恋愛もそうだけど」
 駒井さんはメニューを見ながら次に飲むワインを吟味し始めた。
「へぇ意外です。離婚経験者ってみんな結婚にウンザリしてるんだと思ってました」
「まぁ残念ながら私のはうまくいかなかったけど、子供に会えたのは元旦那のおかげだし」
 駒井さんは現在一人暮らし、出会えて感謝した子供とは一緒には暮らしていない。
「まぁでも出産云々と結婚とはまた別の話か」
「でも子供産みたいなら、やっぱり結婚が先ですよね」
「残念ながらそうなんだよねー。でも子供は欲しいけど旦那はいらないって女の人、結構いそうだけどね」
 駒井さんはそろそろ赤ワインにしようかなぁと呟く。
「彼氏もいないし、すごく結婚したいわけじゃないんですけど、一生独身って言うのもどうなのかなぁとは思います。ぼんやりと」
「ずっと独身の女ってイコール寂しいみたいに見られることあるからね。まぁバリバリ仕事して男顔負けの活躍してれば別なんだけど」
「仕事に生きられないから結婚って、何だかその選択の狭さの方が息苦しいですけど」
 特に自分は独立心が旺盛でもないし、一生を捧げてもいいという仕事もない。こう言う女は結婚という形でしか一生の落としどころを見出せないのだろうか。
 疑問に思いながらも、何の解決策もない。中途半端な疑問など持たず、世間の流れにしたがってせっせと婚活して「ほどよい」相手を見つけた方が手っ取り早く呪縛から逃れられそうな気もする。
「鈴鹿さん、ご両親からせっつかれたり、探りを入れられたりしないの?」
「んー、学生時代のときの方が母親はうるさかったかな。自分が父親のことすごい好きで頑張って結婚したってたちだから」
「へぇ、意外。そんなアグレッシブなお母様から生まれたにしては、随分冷めてるのね、鈴鹿さんは」
「昔から恋愛とかあんまり長く続かないっていうか」
 私の中に一つの顔が浮かぶ。今となってはもうすっかり過去だけれど、あのときの気持ちが恋だったかすら怪しいほど昔のちょっとした好意。青春、といえば聞こえはいいけれどまだ未熟だった頃の淡い想い。
「ただ母親は今は、時々買い物行ったりランチしたりする相手がいなくなるのが寂しいみたいで、結婚なんて急がなくていい、とか言ってますけど」
「女の子はそういう楽しみがあるわよねぇ」
 確か、駒井さんの子供は息子さんだと聞いた。
「男の子もそれはそれで可愛いけど」
 駒井さんが子供の話をする時は努めてなのか、すごくさっぱりとした口調になる。セリフだけ聞くと甘い言葉だとしてもまるで他人事のように軽く口にするのだ。その距離の取り方が、会えない時間が多いことを感じさせる。
「じゃあ今は好きな人とかもいないんだ、鈴鹿さん」
「いませんねぇ」
「うちの会社も、手ごろな年齢の人はほとんど結婚してるもんねぇ。新入社員は若すぎるし、冴えないバツイチは鈴鹿さんにはもったいないし」
 あ、私も冴えないバツイチだから人のこと言えないか。笑いながら駒井さんは届いた赤ワインのグラスをゆっくり回す。
「あの、覚えてます?瀬戸さん、瀬戸祐一さんっていたの」

失恋、のこと


「瀬戸くんって・・・ああ、あの、彼氏がいるって言ってた子?」
 少し酔っ払ったのだろうか。つい頭に浮かんだことを軽率に口に出してしまった。話始めるとまぁいいかという気になってどんどん口が滑らかになっていく。
「私、あの人のことちょっと好きだったことあったんですよね。入ってすぐの頃」
「イケメンだったもんね。感じよくて清潔そうで」
「彼氏がいるって言われたのに、話したり、ランチ一緒に食べてるうちに何かこう、そんな気持ちになっちゃって」
 今でも時々思い出す。酸っぱいような苦いような若い頃の思い出。
「ふうん。でもきっと、瀬戸くんの方も気を許してたんじゃないのかな。鈴鹿さんに」
「気を許す?」
「これは私の推測なんだけど、彼氏がいるって公言してる人に好意を抱くくらいだから、鈴鹿さんにその辺りの偏見というか壁というか、無かったんじゃないかと思うの」
 また私の記憶の中に懐かしい顔が浮かぶ。隣の幼なじみ。赤ちゃんの頃からずっと一緒だったけど、今は疎遠のあの顔。
「人の好意の中には、心を開いてくれたから生まれるってことあると思うの」
「心を開く」
「好意かどうかは別としても、瀬戸くんはあなたに心を開いていたと思う。だからあなたもそれに反応する形で心が動いたんじゃない?」
 駒井さんが何かを思うように、ワイングラスに視線を移す。その中に何かが潜んでいるような、それを大切に見守るみたいな優しい視線だ。
「彼って自分のセクシャルな部分を公言することによって人を、特に女性を遠ざけてるようなところあったから、逆に嬉しかったんじゃないのかな。鈴鹿さんみたいに素直にテリトリーに入ってくれる人が現れて」
 当時のことはもうおぼろげにしか覚えてないけれど、こっぴどく振られたという記憶は残っている。
 瀬戸さんが大事そうに教えてくれた秘密の寛げる喫茶店。何度か一緒に食事もして、私にとっても大切になりかけていたのに、あの日、私がいそうな時間にわざわざ彼と、とても仲良さそうにその隠れ家の喫茶店に現れた。
 ここは君とだけの特別な場所じゃないから。勘違いしないで、これ以上立ち入らないで、そう言われた気がした。そうだ、この人は彼氏のいる人だ。私の立ち入る隙なんて一ミリもなかったのに。何を期待していたのか。
 線を引いた上で、瀬戸さんはこれまで通り接してくれようとしたけれど、しばらく私は心の整理が追いつかなかった。表面上、仕事でのやりとりは変わりなく、時には雑談を交わすこともあったように思う。瀬戸さんなりの優しさかあるいは気遣いだったのだと今になってわかるのだけれど、当時は少しだけ苦しい日々を過ごした。顔の皮膚と内臓がバラバラになった気がして、眠りの浅い日が続いた。
 そう思うと、あれは真面目な恋心だったのだろうか、となるのだけれど認めたくない自分もいた。
「好きになっちゃいけない人って、わかってたのになぁ」
「そうよ、そういのうが恋って言うのよねぇ。止められなくてどうしようもない」
「そんなに好きになったつもりなかったんですけどね。ちょっといいな、とか、もう少し話してみたいなとかその程度の気持ちだったんですけど」
 話せば話すほど、自分があの時瀬戸さんに好意を、それも報われたいと思えるほどのしっかりした好意を抱いていたような気にさせられる。
「何か突然思い出しちゃった、瀬戸さんのこと。もうすっかり忘れてたのになぁ」
 瀬戸さんは程なくして会社を辞めた。彼と別れて自暴自棄になったらしい、とか、彼と一緒に海外に行くらしいなどと勝手な噂がしばらく飛び交ったけれど、春の蝶々みたいにしばらくふわふわ舞った後にふっとどこかへ消えてしまった。
「そう言えば、瀬戸くんと仲良かった女の人、もう一人いたなぁ。パートのおばちゃんだったけど。おばちゃんって失礼か。今の私とそんな変わんないわ」
 そう思うと瀬戸くんって結構そういう人キャッチするの得意なのかもね。駒井さんが懐かしむような顔つきになる。
「でも私も瀬戸くんのこと好きだったわよ。あの子仕事がキレイだったから」
「仕事がキレイ?」
「出す書類とか丁寧に仕上げてくるし、どんな仕事もおざなりにしてないって伝わるいいまとめ方してくるんだよね」
「ああ、わかります」
 すらっとした体型にスーツがよく似合っていたし、髪の毛もいつもちゃんとまとめていて、爪も切りそろえられていた。
「あぁ、思い出すとやっぱり格好良かったですね。瀬戸さん」
「ま、私はああいうイケメンで細い感じの子はタイプじゃないんだけどねー」
 駒井さんの言葉につい笑ってしまう。思い出すときのチクチクとした胸の痛みも、こうやって笑ってやり過ごせる。私にとってはすっかり過去になった、甘い淡い想い。
「焦る必要はないけど、鈴鹿さんが好きになった人と次は幸せになって欲しい、とは思うなぁ」
 駒井さんが優しい視線を向けてくる。

駒井さんの事情



 駒井さんにはこの会社に入ってからずっとお世話になっているけれど、最初はこんな風に二人で飲みにいく仲になれるなど思っていなかった。駒井さんは会社の人とは決して必要以上に親しくなろうとしていなかったし、飲み会の類に一切出てこないところからお酒を飲まないのだと思っていた。
 けれど一度業務が立て込んで残業続きになった時期に「夜ご飯一緒に食べて行こう」という話になり、戸惑いながらついていくと居酒屋に入ったので驚いた。
 彼女は「会社入った時は一度深いところまで沈んだ気持ちを何とかしなきゃって必死で。他人からどう思われるとか考える方が面倒だったの。自分のこと聞かれるのも嫌で、そう意思表示したらあっけないくらい楽だった」ということだった。別に特別厚いバリアを張ろうとしていたわけでもなく、公私をはっきり分けたいという主張のもとの行動でもなかったようだ。
 どちらかと言えば、強いというよりも弱い自分を守る行動だった。
 「可愛げがないとか思われてたと思うけど、定着しちゃえば、結構楽なんだよねーこのスタイル」そう言ってビールを豪快に飲み干す駒井さんを見ていたら、何かこの人いいなと思ったのだ。これまでは仕事をきっちりこなし、プライベートは一切見せない、というどちらかと言えば極端な考えの人なのかなという印象だったのが、一気に親しみを覚えるようになった。

「私にできますかねー、恋愛」
「わからないけど、鈴鹿さんみたいな子が幸せなってくれないと、今の日本は希望がないわぁって思うわね。私みたいな女からすれば」
「駒井さんみたいな女ってどんな女性ですか」
「んー、定番の幸せ列車に乗ったはずだったのに、いつの間にか無人駅で降りちゃってた、みたいな女?」
「何ですかそれ、わかんなーい」
 けらけらと二人して笑うと、グルンとアルコールが全細胞に巡っていく錯覚に陥る。ふわふわと浮遊した体は湿った空気に乗って、唐揚げやニンニクの香りと一緒になって漂う。
 こんなふわふわした状態が恋だっけ。
 私はレモンサワーの酸味を心地よく喉に転がしながら、もう少しこのふわふわを味わいたいと願う。
「結婚も出産も女の全てじゃないけど、もし強く思える相手が現れたとしたら迷う必要はないって思う」
 私は正直ピンと来ない。
 結婚し、子供のいる友達とは結果的に疎遠になっているし、今よく会う友人はみんな独身で中にはバツイチの子もいる。結婚に多大な夢を抱く年齢はもう過ぎていて、結婚はイコール今後の人生を左右する岐路に思えてくる。そうなるといよいよハードルは高くなってしまう。
「駒井さんは、この人だ!って強く思う人と結婚したんですか?」
 駒井さんはスイスイとワインを飲んでいる。今日は酔わないなぁと首を捻りながら、少し目がとろけてきていた。
「私は違うわね。三十過ぎても別に焦ってなかったし相手もいなかったんだけど、父親が病気でいよいよ危ないってなっちゃったの。そしたら母親がせめてあなたの花嫁衣装を見せてあげたいって毎日泣いてさ。思えば精神不安定だったのね。ただ私としては何だかぐっと来ちゃって」
「えっ、そのお父さんのために結婚したんですか?」
「当時友達だった元旦那とね。彼は幼い時に父親を亡くしてたから、私がその話したら絶対それは叶えてあげようとか盛り上がっちゃって。深く考えもせずに、まぁこの人なら気心知れてるしいいかって」
「そんな結婚もあるんですね」
 何と、私の最も理想とする「外的な理由によって」あれよあれよと決まるパターンだ。
「友達みんな驚いて。彼氏もいないうちに結婚が決まったもんだから」
 駒井さんはくるくるとワイングラスを回して微笑む。今日の駒井さんは少し饒舌だ。
「孫の顔は見せられなかったけど、妊娠したってことだけは伝えられたのが最後の親孝行だったかもなぁ。ただそんな風にしていい気に浸ってたから何もかもが終わった時にどっと来たの、反動が」
「反動?」
「思えば覚悟が足りてなかったのかな。あまりにバタバタと決まっちゃったから。父親が亡くなって、子供が生まれて、なんか心の整理がつかないうちに育児に追われるようになって、心がミシミシ言い出して」
 駒井さんは育児ノイローゼのようになって塞ぎ込んでいき、タイミングの悪いことに旦那さんの仕事が忙しくなり始めて出張も頻繁になってしまう。
「私さ、今じゃ考えられないだろうけど、昔ははっきりものが言えなくて抱え込むタイプで。混乱して弱ってるところにぐっと悪魔が入り込んできてねぇ」
 もうすぐで死ぬところだった。ポツリと言葉を吐く駒井さんのその先に暗い穴が見えた。
「予感めいたものがあったのかな、旦那が出張1日切り上げて帰って来たちょうどその時、包丁をこうしてるとこで」
 駒井さんはセーターの袖をまくって、右手の手刀で左手の手首を切る仕草をする。
「ベッドで赤ちゃんがギャンギャン泣いてたけど、もう耳に入ってなかった。とにかく楽になりたかった」
 ま、昔話よ。駒井さんはふふっと微笑んでワインをぐっと飲み干す。ピッチが速い。
「それでね、これ以上子供と一緒にはさせられないって、あっちのお義母さんに取り上げられちゃったの。そっからだよね、とにかくまず自分を守らなきゃって考え方変えて。子供に会わせてもらえるようすごく頑張った」
「そうだったんですか」
「あらいやだ、恋バナするつもりがこんな湿っぽい話」
 ぐすっと駒井さんが鼻をすする。横顔のまつ毛がふと濡れているように見えた。

優しい手のひら


「もしかして、最近何かありました?」
 昔は自分の気持ちを抱え込んで押さえ込んでいたという駒井さんだけれど、今でも自分のこととなると口重くなる。平然と淡々と、いつも同じテンションで仕事をバリバリこなす駒井さんだけれど、その内側にはいろんな波風を隠しているに違いない。
「まあねー。でも仕方ないことなんだけどね」
 そう一旦牽制しながら、駒井さんは毎月会っている子供と数ヶ月前からあまりうまく話せないのだと言った。元旦那さんの再婚相手ともうまくいっているようだし、自分の出番はもうないのかなと思っている、とポツポツと話してくれた。
 私は浅はかにも聞きながら涙してしまう。
「もーう、湿っぽくなんないでー。小学校の高学年になったくらいから、覚悟はしてたんだ。男の子だからあんまりママにべったりも困るけど、いざとなるとちょっと寂しくなっただけー」
 これでは駒井さんが泣けないではないか。私はここで泣くべきではない。そう思うと余計に泣けてくる。
「ごめんなさい。なんか私、止まらなくて」
「もう本当に鈴鹿ちゃんは乙女だなぁ」
 駒井さんが背中をさすってくれる手が温かくてほっとする。こんな風に無駄のない優しさを与えてくれる人が愛する子供を手放さなければならないなんて。
「でもま、しなきゃいけない、とかそんなことないわよ、結婚も恋愛も。自分の人生の一部ってくらいに考えとくと気が楽かもね。他にもあるでしょ、人生の楽しみや幸せって」
 そうだろうか。
 私にはまだわからない。恋の楽しさも、愛の深さも、そして人生の本当の悦びについても。
「私はね、いつも自分のバロメーターを測る時、元旦那のこと考えるの。彼の幸せを願える時ってやっぱり自分もいいのよ、調子が」
 私はどうだろう。
 懐かしい思い出、テツくん。最初に勤めた会社で好きになったあの人、そして瀬戸さん。
 流し込んだレモンサワーの酸味がスカッと胸に抜けていく。自分の心の温度がそれでわかった気がした。
(了)

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