見出し画像

徒然なるままに…追憶(高校編)

こんばんは。デルタです。
こちらの文章は私の中学生編の続きの高校編になります。私の気持ちや感情が少しずつ壊れて来た時代です。


地元の公立中学校を卒業後、私の第一志望だった、某県学区トップの高校に入学し、入学後に中学3年間の内容のペーパー試験を受けることになりました。

当時、私の高校は普通科320人、理数科40人の定員で一学年は約360人程度の高校でした。

その入学後のペーパー試験で理数科を含めた365人中、私は325位と悲惨な成績でのスタートでした。ただ、私は学力的にもギリギリの成績で入学したと思っていたので気持ち的には入学してホッとしている自分がいました。

私はとりあえず入学後、中学生の頃の人見知りのような性格を変えたいと思い、少し体格の良い人や雰囲気がイケてるような人に話しかけてみようと思いました。しかし、コミュニケーションの欠落により中々話しかけられない、何を話題にしてもうまくいかない自分がいました。

そこで、中学生の頃に比較的話しやすい人と共にイメージチェンジを図るべく、バドミントン部に入部しました。そこで、話題ができ同じ学年のクラスメイトと初めて交流を持つことができました。

当時は、ガラケー全盛期でどの携帯を買ったか?というのが話題の一つに上がったり、携帯のゲームの話や1年生ながらに将来の進路についても話していたと思います。
中学生時代とは違う環境があったと思います。隠れてタバコを吸っている生徒はいたと思いますが、私の高校は基本的に自主性を尊重していたので勉強をしてある程度の成績をとっていれば大丈夫だったと記憶しております。

部活では、体育館が使えない時は近くの公園まで行って学校に帰ってくるなどランニングをしたり、体育館の隅で筋トレやラケットを手首で回したりするなどトレーニングを行っていました。

高校1年生の春から夏にかけて時が過ぎていき、少しずつ私は環境に慣れたと思っていました。しかし、部活で女子生徒から何か悪いことを言われていました。
(※この時点では幻聴とかそういうのではありません、被害妄想などの要因が強かったのだと推測します)

身体が細くて顔が長くてキモいとか、頭が悪い、馬鹿とか、、
私は中学生の頃、塾でもイジメを受けていたので、憶測ですがその頃の情報がどこかで伝わっていたのかも知れません。
ただ、部活の仲間は優しく、「デルタ、あんなこと言ってるやつ気にすんなよ!」と好意的でした。
そんな中、1年生の夏休みに部活の夏合宿があり少し離れた隣町の高校との合同合宿がありました。とりあえず、旅行みたいな気持ちもあったし、久々に電車に乗れるし(私は当時自転車通学でした)、楽しみだよなぁ。と思っていました。

しかし、他校と練習していると、何故か女性の笑い声がいつも練習している時に感じるように隣の女子バドミントン部の生徒からの嫌がらせのような気持ちになっている自分がいました。
私は何なんだろう?何もしていないのに、人に注目されるような感覚を感じ、おかしな感覚に陥りました。
その夜、部活の仲間と夏休みの宿題をやりながら、まだ1年生なのに勉強詰でした。他校は夜は遊んでいるのに、何故私の学校は勉強しなければいけないのか?といつも思っていました。

確かに今後の大学進学等の進路を考えれば早めに勉強しておいた方がいいかも知れません。しかし、私はそれが苦痛でたまりませんでした。

部活の夏合宿が終わり、その後、勉強合宿というものがありました。とりあえず申し込んでいたので行くことになりました。
仲の良い人と行動はしていました。しかし、女子生徒から嫌なことを言われたり、同じ部屋になった男子生徒の一部にも「death(死)」など書かれるなど、それは気分の悪いものでした。

ここで気づきました。この高校はこの地域では優秀な高校かも知れないが、いわゆる中学校カーストの中の頂点にいた人たちが通う高校で、いわゆる私のような人付き合いが苦手でコミュニケーション能力に乏しい人には合わない高校なのだと。

しかし、私の出身の某県のある地域は東京や大阪、名古屋のように学校を選べない現状もありました。ただ、周りの私の親世代から上の年配者からすると、元々の旧制中学の時代からある伝統校で、各界に多様な人材がいるとか、そういうプライドの高い人が多く、リーダー的な存在の人が多く、、、それが当時の私から今日においてまで、逆にコンプレックスになり、未だに苦しく感じている事象の1つです。

1年生の夏合宿も終わり、秋になりました。とりあえず、私は勉強に部活にある程度努力はしていました。
しかし、周りのレベルについていけない劣等生になると共に、いつも下を向いて歩くような生徒になっていきました。

いつもから元気で部活には出ても女子生徒にイジメられる、もうダメだと思い、私は部活の仲間に何も言わずに監督に退部届を出しました。
その後、仲の良かった仲間に何故辞めたのか?辞めなくても良かったのに…と、何人もの男子部員の仲間に戻ってこいよと言われました。しかし、当時の私は”あれだけ一生懸命に努力して練習している仲間に迷惑をかけることができない”、そして、”この男子バドミントン部が俺のせいで悪くなっている”と感じていました。

部活の監督は選手を選ぶ際に努力や能力の高さだけではなく、ビジュアルも兼ねて選ぶなどよくわからないことをしている教師でした。今でも思い出すと反吐が出ます。あいつに私を含めた仲間たちの青春を潰された、そして、あの後部員は私の後を追うように何人も辞め最終的に数人程度になったそうです。

部員の多くは、あの状況下で練習をしたりするのが辛かったのだと思います。

私は部活を辞めて、1年生の頃から某旧帝大に行くと決めて勉強をしていました。近くの塾も見学に行きましたが、苦手な生徒が多かったので辞めました。
とりあえず独学で英語、数学は毎日勉強していました。その1年生の涼しくなって来た秋から少しずつ寒くなってくる冬の頃、私は学校での嫌がらせや勉強のストレスで、気持ちを発散するところがなく、毎日毎日、部屋にこもってはうなされました。

そして、その年の冬、「家の近くのオバサンが私のことを襲おうとして悪口を言っている」、「その人たちが学校の授業を覗きにきている」など幻聴症状が顕著に現れていました。私はおかしくなり「家をぶっ壊しに行く」、「◯してやる」等言い出したので、父親が心配し、後日、父親と共に精神科を受診しました。そうしたら、そちらの精神科の先生がもっと大きな病院で診てもらった方が良いと言ったそうです。

そして、私は同年12月、両親と共に少し大きい病院を受診しました。そして、そのまま入院することになりました。私は風邪を同時にひいていたので、当時の先生にすぐ出してもらえると思いました。風邪だろうし、2,3日の辛抱だろうと。しかし、当時の統合失調症でよく使われていたリスパダールを処方され、身体も心も成長段階の私はついに薬で心身が蝕まれてきました。

しかし、私は病棟の部屋でただひたすらに英単語を書いたり読んだりしていたそうです。某旧帝大やW大に行きたい。とそんなことをいつも口にしていたそうです。

入院病棟には色々な人がいました。私が入院した時代は精神障害の概念や考え方が後進的で10年以上も入院している人も多く、社会の受け皿が今よりもずっと少ない時代でした。
(※今の医療とは違い、自立支援医療や精神障害者福祉手帳の制度、そしてケースワーカーなどの制度の整ったものではまるでなかったのです)

私は親くらいの歳のオジサンや祖父くらいの歳のお爺さんと同じ部屋でした。

よくウォーキングをしているオバサンに誘われて病棟の廊下を一緒にウォーキングしたり、同じぐらいの歳の人があまりいなかったので、上の世代の人たちに揉まれながら生活をしていました。携帯電話は持ち込み禁止だったので、夜の限られた時間に家にテレホンカードを使って、10分程度毎日電話をしていました。早く家に帰りたいといつも私は言っていたそうです。そして、私の両親は中々誰にも相談できず辛かったと思います。

私はある夜、薬の副作用でふらふらと放心状態になり、よくウォーキングを一緒にしていたオバサンの部屋の前で倒れました。それであまり記憶がないのですが、その後そのオバサンが看護師さんや医師に連絡してくれて、一命を取り留めたそうです。

でも、朝起きたとき薬の副作用はあったけれど生きていた自分がいて良かった…と思います。その後、食事も頻繁に戻すことがあったので、同じ部屋のオジサンやお爺さんが助けてくれました。本当にとても優しい人だったと思います。

その頃、父が私の兄妹のMDコンポで録音した音楽を持って来ては、PanasonicのポータブルMDをよく聞いていました。本は読もうとしても頭に入らないので、クレヨンしんちゃんの漫画くらいしか読めなかったそうです。

高校生になって初めてのクリスマスは精神病棟でした。簡素なケーキやお祝いなどがあり、16年目の人生で初めての感覚でした。
また、同じ部屋のオジサンが懐かしい某沖縄出身アーティストの歌をカラオケで歌っていました。とても気持ちがこもっていたのを覚えています。私は何故かサザンのTSUNAMIを歌いましたが、カラオケは人生初めてだったので、やり方もよくわからずじまいの初体験でした笑

その頃、病棟で某通信制の高校に通っているという私の1つ年上の女性に出逢いました。私はただ一緒にテレビを見たり、うまく話せないけれど、ただ横にいるだけで安心感のある人でした。
また、後から私と同じ部屋に少し年上の男性が入って来て良く話をしていて、その時の会話も何だか心安らぐ時間でした。

その間、担任のT先生も私の様子を見に面会に来てくれました。T先生は「デルタ、顔色が大分悪いけど大丈夫か…」と。T先生はとても心配した様子でした。後で聞きましたが、教員人生の中でT先生にとっても初めての体験だったそうです。
(※初めての経験にさせてしまったT先生、あの時は本当に申し訳ありません)

その中で当時の主治医の言葉は「デルタくん…この病気はね…就職もできるし、結婚もできるから希望を持って頑張ろうね」と…。
私は夜、いつも涙を流しながら寝ていたそうです。

そして、1か月が経つ頃、突然主治医から来週には退院できると言うことが伝えられ退院することになりました。

(※実は入院は当初3ヶ月の予定だったらしく、私が早く病院から出たいとのことや両親の希望や状態が少しずつ安定して来たことを考慮して、1ヶ月で退院できたそうです。当時では異例だったそうです)

退院後、私は自宅で療養しながら、仕事を一時的に辞めた母や祖母と近くの公園に行ってはウォーキングをしていました。祖母はデルタちゃんと小さな時みたいに一緒に歩けるのは夢みたいと言っていました。

また、私は薬の副作用でアカシジアや喉の渇きが強かったり大変でした。筋肉注射を受けに行ったり、それはそれは苦しい思いでした。

1ヶ月の自宅療養生活のあたりで、当時の副担任の先生が自宅に頻繁にプリントを持って来てくれました。また、担任のT先生と面談をして、入院するまで幸いなことに皆勤で学校に来ていたから、最後の学年末の考査は受けに来ない方がいい。今受けたら全ての科目で赤点を取って留年するから、とりあえず学年末考査が終わったら学校に登校してくれと言われました。

とりあえず、登校日、私は不安でした。また何か言われるのではないか?
しかし、特に何も起きず、T先生から簡易的な説明があり、何とか学校に復帰できました。あの夏、秋、冬…何だったんだろう…と。
担任のT先生は数学の先生で、学年末の考査が終わった後に数学の授業があったのですが、3ヶ月近く休んでいたので、それに加えて頭をほぼ動かしていなかったので、何もわからなかったと思います。

右斜め後ろの1番後ろの席。今でも覚えています。あの病棟で◯んでいたら、多分花でも置かれていたんだなって。今も思い出すと悔しさと辛さが滲み出て来ます。

同じ中学校から同じ高校に来た友人Iと補習に行く機会がありました。彼は「突然デルタが学校に来なくなったから心配したんだよー!」と言っていました。流石にそのことを話すことは出来ませんでしたが。

英語の当時若かった女の先生の補習を受けながら、◯◯ちゃんって可愛いよなーとかそんな話をIとしていたのを覚えています。そして、補習後Iはかなり厳しい部活に入っていたので、赤点なんて取るなよーと彼は他の部員に言われていました。

そして、1年生の終わり、Iと私ともう1人の3人で2年生への進級の為の試験を受け、私以外は合格しました。私は頭が動かなくなっていたので教科書の英文を覚えることすら困難になっていました。でも、家で毎日読んで覚えようと努力はしたことが認められて何とか下駄を履かせてもらい進級することができました。  

2年生に進級したが、勉強は全然出来なくなっていました。そして、1年生の時と同じT先生が担任の先生になりました。この頃からどんどん学校には行ったり行かなかったり、体育の時間は保健室に行き、保健室の先生と話したりしていました。
毎日、両親に学校に行きたくない。そして、無理やり学校に連れて行かれたりしました。ついに、それを見かねた親が通信制の学校を観に行くか?と言って来ました。実際に近くまで親に連れられ見学に行こうとしていました。しかし、その通信制の学校の中には入ることは何故かできなかったんです。あの当時の私は中学生の頃にイジメて来た人に学歴で負けたくないプライドと努力して入った高校に未練がありました。
正直なところ、地元だと絶大なブランドはあるし、今後どうなるかもわからなかったこともありどうしようか悩んでいました。

とりあえず通信制高校は保留にし、何とか辞めることはしなかったです。

その後、学校には母親に車で送ってもらったり、当時は母方の祖父母の家に母と共に一時的に住ませてもらい、生活していました。一度トラウマを抱えてしまったところから一時的に身を移すことや祖父母の温かさもあったので、母と共に祖父母と半年ほど一緒に暮らしました。

祖父母は何となく察してはいましたが、深くは聞いてこなかったです。祖父は元々寡黙な人で、祖母は元々病院で食事を作るような仕事をしていたそうで、どちらかというと、寄り添い、その後に笑顔になれるような愛情のある人でした。

何度も体調不良で早退した時、自転車で通えなくなった時、朝は母に車で送ってもらい、帰りは祖父に送ってもらい、もう限界でした。

当時の家族の思いはとりあえず高校だけは卒業して欲しかったとのことです。いつのまにか私の中でそれが人生のゴールになっており、成績もなるべく難しい科目は履修しない、赤点スレスレでいいから35点以上の点数を取ることに集中していました。

そして、2年生の初めの定期考査では猛勉強し、全ての科目で赤点を取ることもなかったです。
でも、認知機能の落ちた頭脳で全力で35点以上取れたことで自信がつきました。この日から私の卒業までのカウントダウンが始まりました。

その頃、私は父親に高校にまた通うとの約束でMDコンポ(ダブルMD)を買って貰いました。中学生までの私は欲しいものを欲しい、やりたいことをやりたいと言える子供ではありませんでした。しかし、入院病棟で出会った同じ部屋のオジサンの影響でとても音楽を聴くことが趣味になっていました。それからというもの、TSUTAYAに毎週のようにCDを借りて来てはMDにダビングしました。中学生同様、ブックオフも行き漫画と音楽のダブルコンボでした。

1人で遊ぶことが増えました。この頃、今までずっと貯めていたお金でPS2を買いました。初めて買ったソフトはFF10です。私はそのストーリーを重ねて、ヒーローとヒロインのやりとりを高校生なりに重ねていたようです。17歳の私は普通に学校にも登校できない、笑顔になれない、そして女の子と手を繋ぐどころか、うまく話すことができない少年でした。

ただ、1つエピソードがあります。高校2年生の秋、雨の中1人で学校帰りのバスを待っていた時、あるクラスメイトのもの静かな女の子が私に話しかけて来たのです。「デルタくんって◯◯中出身なの?」、「いつも何をやっているの?」とか…あまり思い出せないですけど、とりあえず穏やかな雰囲気だったんですよね。

別に青春の1ページでも無いかも知れないですが、当時の私としては奇跡的で、私と話してくれる女の子がいたんだなって思い出しました。純粋で嬉しかったんだと思います。

高校2年生から理系クラスになったことで、男女比率が明らかに男の方が多く、理系の私のクラスの人は学校の配慮?で比較的優しい人が多かったと思います。ある程度将来の学部を決めている人が多かったのもあり、理工系に行きたい人や、すでに医学部と決めている人もいました。

2年生も終わりに近づいて来た頃、人が怖くて塾に行くこともできなかったので、無理に無理を言って、週に1,2回ほど、家庭教師をつけてもらいました。不登校生を主に対応している女の先生、数学・物理を教えてくれる男の先生、そして私の気持ちに寄り添う、男の英語の先生。もう一度、勉強を頑張ってみよう。と心の中で思いました。

3年生、高校生最後の年。私は理系120人中、119位でした。でも、1年生の初めてに描いた大きな夢よりも小さなことをとりあえずやってみようと思っていたかも知れません。

春になり、今年は担任が変わり若い国語科担当の男のN先生が担任になりました。そして、春の遠足ではうまく人と話せなかったので、ほとんど先生と話していました。

突然、N先生が「デルタはやりたいことはないのか?パソコンとか興味はないか?」と言って来ました。
私は当時、ワードもエクセルもわからなくて、情報の授業はクラスメイトにパワーポイントで資料を作ってもらい乗り越えたので、パソコンかぁ…と思っていました。N先生はよく私を気にかけてくれました。「昼休みやることがなかったら、図書館に来いよ!と。とりあえずおれはいつも図書館の部屋にいるから個室で話もできるぞ」と話してくれました。

夏になり体育祭の準備の時に、私は1人でぼーとしていました。そうしたら、少し気の強そうなクラスメイトの女の子が「デルタくんも手伝ってね!とりあえずここ手伝ってよ!」と言って来ました。私はとりあえず簡単に手伝いました。

なんだか、下級生の頃よりその時の私は少しだけ成長していました。学校も何とか遅刻しながら休み休み、騙して騙し行っていたし、相変わらず保健室にはお世話になっていましたが、年配の保健室の先生はとても穏やかな人でした。

(※文化祭や修学旅行は中々思い出すことができないので割愛です。また、修学旅行の目的地などを記載すると大体の私の出身地がわかってしまうので割愛させていただきます)

夏休み、第一志望校は某国立大学工学部、併願として某私立大学理工学部に決めました。

とりあえず、数学のチャートをひたすら解き、眠い目を擦っては毎日地元の図書館で勉強しました。数学センスは全くありません。でも、数学が好きでした。物理も同様によくわからなかったけど、解けた時が最高に気持ちが良くて…

図書館で数学のチャートを解いている時にチャート式のコラムにこんなことが書いてありました。

それは、”何故数学を学ぶか?”です

簡単に言うと、人生はいくつもの答えがあるけれど数学には答えは1つしかありません。その人生の、そして高校生の時に人生の答えを見つける練習をしてもいいのではないかと言うことです。

私はそのコラムを暗記するほど読みました。

人生とは?生きるとは?

まだ、高校生なので良くわからなかったのですが、今の30代の私はあの時のチャートのコラム意味を理解しつつあります。

夏が終わり秋になると、周りは受験モードに切り替わりました。周りはどんな参考書で勉強してるとか、どんな塾に行っているとかそう言う話もしているみたいでした。しかし、私には中々情報が渡ることもなかったですし、某国立大学には行きたいと思っても、その頃の模試では偏差値38と劣等生でした。

教室の黒板にはセンターまであと◯◯日と書かれたものがあり、何か思い出すと高校生だったんだな…とノスタルジックな気持ちになります。

その頃、3年生にも関わらず、フジテレビ系の白線流しというドラマの再放送をテレビで見ていました。私よりも一回り上の世代の人たちの高校時代の情景を描いた青春ドラマです。それに影響されて私も少しくらい夢を見てもいいのかなぁとも思っていました。

この頃、勉強の障害となったのものは、今でも飲んでいるオランザピンです。とにかく眠く、勉強ができなくなるので親に言わずこっそりと捨てていました。

12月、勉強のストレスやその他諸々で、またおかしくなりつつありました。その時父親に「もう勉強勉強するな!!!勉強やめろ!」と言われました。

初めて父親から、今までは勉強しろ!と中学生の頃散々言われたのに、何を今更…とも思いました。でも、私は辞めたくなかった。むしろやり通して燃え尽きたいと思っていました。

一時的にはやめましたが、時間がない、、、
そんな中、苦手の国語や英語が少しずつわかって来ており…でも、、センター試験初日、2日目…

終わりました。全てを出し切り、学校で答え合わせをしました。

今でも覚えています。5教科7科目で得点率52.1%…完敗でした。

私の高校3年間の勉学での結果は5割弱の成績でした。別に高校生活は勉強だけではないと思いますが、やり切った自分は次のステージに行こうと切り替えようと思っていました。

そして、担任のN先生に相談に行き、いい予備校ないですかね?などと冗談混じりで話していました。中にはお前には行ける大学なんかないって言っていた教師も沢山いました。

でも、センターだけで出願できる大学を探して、私立大学も一般入試で3つ受けました。

最終的に、某国立大学には落ちて、ある中堅私立大学に合格しました。

そして、卒業の日。

みんなクラスメイトは色々と話している中、私は少しだけ話したい人と最期になると思い会話して、颯爽と教室をでました。

家に帰り、父親の使っていたパソコンを開き、サスケというアーティストの卒業の日という曲が偶然web上に出て来たので聴いていたら、何故か涙がボロボロと出て来ました。色々とあった人生で1番苦しかったであろう高校生活、何度も辞めようと思ったけれど、辞めなくて良かったな…と。
その音楽を聴いている時、高校3年間の情景が急激に美化され涙が溢れていました。卒業できて良かったと思うと共に、仲間との思い出に包まれていました。

その後、浪人しようか悩みに悩み、私は父親に宅浪したいと言いました。しかし、父親は引きこもると悪いから1年だけなら予備校を行くことを条件に浪人しても良いと言ってきました。ただ、今までのトラウマが染みついた土地から出たかったし、もうこの狭い世界からでたい気持ちがまさり、この街に出ることにしました。

そして、病院の先生に大学に合格したということを伝え、「良かったね!これから人生を楽しんでいこう」と言われました。

新しい生活が始まる。おれの人生はこれからだ。

高校生であった3年間は、これから続く未来の土台になっていました。この苦しい高校時代があったから今の自分がいるんだと細やかながらに思っております。

徒然なるままに…追憶高校生編(完)


〜編集後記〜

18歳のまだまだ少年だった頃を思い出します。中学生の頃から少しずつ精神に異常をきたし始め、様々な環境要因が重なることで、私の体調は幾度となく悪化の一歩へ変化していきました。

我ながらに何の病気なのか?と思っていましたが統合失調症ということは病院を退院してからある程度経ってから知りました。残酷でした。治らない病気とわかっていましたが、当時の主治医は私のことを諦めさせてくれませんでした。その主治医はこの病気になって初めて見てくれた医師であり、当時のことを今から20年程前の詳しい状況は当時を知るものでないとわからないことが多いと思います。しかし、今になって統合失調症から特定不能精神病性障害と病名が変更になりました。併発して、多動性障害(ADHD)、広汎性発達障害(ASD)となりました。

また、高校生活を通じて学校から家、仕事から休職などのパターンが2023年9月現在ですが、見えてきました。

高校卒業以後の私の行動パターンは下記の通りです。

常にギアを入れる
→ギアを弱める(体調不良)
→ギアを入れる
→ギアを弱める(体調不良)
→ギアを入れる

の繰り返しだったと思います。そして、18歳の私から1x年。

いままでずっと、このような生き方をして来ました。

これからは様々な私の障害について、生活や環境に軸を置く生き方を模索し、気持ちが落ち着き安定した生活を目指していけたらなと思います。

また、徒然なるままに…追憶(大学生編)以降は多分書かないと思います。私は中学生編や高校生編も全てが全ての記憶を思い出せた訳ではないですが、全てを公開できる訳でもない状況可に置かれています。
その中の数あるエピソードの1つであると思っていただけたらありがたいです。
また、noteを書いている際に、昔のことを思い出すに連れて急に苦しい気持ちに陥る自分や、逆に楽になる自分がいました。やはり、楽しい時の気持ちは嬉しいですし、苦しい時の気持ちは思い出すと気持ちが不安定になります。

そして現在、仕事を休職しているこの時間(とき)に過去を振り返り、整理し、私自身の強みや弱みについて深く考えることができていることこそが、私の人生のテーマである”彩りそのもの”なのだと思います。その点に関してはこのnoteを書き始めたことがプラスに生じていると感じます。

最後に、私と同じように闘病生活を送っている方々や医療・福祉関係者の方や教育関係者の方、ならびに私のnoteに興味を持ってくださる方の心に少しでも届いてくだされば、私の本望ではないかと思っております。
最後まで読んでいただきありがとうございました。


2023年9月吉日 
デルタ

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?