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生生流転

 自分が生きている意味を考えてみた。

 これまでの人生で命を失っていたかもしれない出来事は幾度もあった。
 そんなに大げさなことではない。生と死の境目など、私たちのすぐ隣にあるのだ。ほんの少しの差が運命の分かれ道。
 偶然なのか必然なのか、ただ単に幸運だっただけなのか、ありがたいことに生き延びることができた。
 人生百年時代と喧伝されて久しいが、これまでも然程役にも立っていない我が身である。寿命の尽きるまで何か出来ることがあるとすれば、せめて次世代に余計な手間を掛けさせないようにすることだろう。

 自分は地方の農村部に生まれ、農業を営む家族の元で育ち、田畑の傍らで遊び、学んできた。
 食と農は生きる基盤である。だが、今や耕作放棄地は増え、担い手は不足し、持続的な生産もままならない状況に陥っている。地域人口も減少の一途だ。以前であれば、不足する収入を給与で補いながらも持続できていた小規模農家もあったが、すでにそれでは農地の維持も限界に近い。大規模化で生き残りを図ろうにも、農産物価格は思うようには上がらない。どうしたものだろうか。

 亡き父が病の床に伏したときに、農地のほとんどは治療費を払うために手放してしまい、今はわずかに残るだけとなった。しかし、この残った農地などの資産を活用し、地域に貢献することはできないのだろうか。

 自分は農村と都市を結ぶ拠点。
 生産者と消費者が交流する拠点。
 多様な才能が交錯し、新たな創造が産まれるような拠点。
 地域にそのような場所が欲しい。

 周囲には海も山も川もある。自然に囲まれて作物を育てながらリモートワークでの仕事をこなす。そんな新たな兼業農家の形もあるかもしれない。疲れた心身を癒す庇の役割を果たす、そんな取り組みも地方には必要だろう。
 受け継いだものを守り育て、可能な限り次世代に繋ぐ。
 そんな夢の実現に残りの人生を使うのも悪くないと思う。

 持続可能な開発目標と言うけれども、もともと自然は持続可能なものである。人間もまた、その一部に過ぎない。自然の恩恵を受けながら生かされているのだ。「開発」ではない。すでにあるものを「使わせていただく」のだ。驕り高ぶってはならない。
 自然とは荒ぶるもの、常に畏敬の念を忘れずにいたいものだ。


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