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賢い人の秘密

2000年の時を超えて蘇る、最強の思考法!

2000年以上も前、ギリシャ最高の哲学者アリストテレスは「人類共通の思考の秘訣」を発見しました。

その秘訣は、後に大帝国を築き、賢王アレクサンドロスとして知られるひとりの少年に伝授され、今もなお、「考え」「論じ」「説明する」私たちの中に息づいています。

本書は、アリストテレスの教えを、現代社会で役立てられるよう、可能な限り明快に、かつシンプルに解説します。

ビジネスミーティング、政治討論、家族のもめ事、哲学的な議論…

どんな場面でも、一部の人だけがいつも発言し、解決策を提案できるのはなぜ?

賢い人たちはどのように考え、対処しているのでしょうか?

知性とは、何を知っているかではない。

どう思考するかだ。

本書を読めば、あなたも最強の思考法を手に入れ、人生をより豊かにすることができます。





はじめに

賢い人たちはどのように考え、対処しているのだろう。
ここで一つの疑問が生じる。

この能力とは一体何なのだろう。
その答えは「知性」である。

まず知性をシンプルに述べよう。
「知性とは、何を知っているかではない。どう思考するかだ。」
※知性・・物事を知り、考えたり判断したりする能力
※思考・・考えること

人の思考は、持ち主を問わず、基本的に同じ構造をしている。
あらゆるトピックスのあらゆる会話に潜む思考パターン一式を、アリストテレスは特定したのだ。
これらのパターンこそ、今も昔も人の思考を根本から支える原理である。


その1「演繹」賢い人には論理力がある

アリストテレスによる演繹の定義はこうだ。
「一定の事柄が言明されたとき、それらの言明に従って、別の事柄が必然的に導かれること」
以下は、演繹を説明した有名なたとえだ。
①全ての人間は死ぬ
②ソクラテスは人間だ
③従って、ソクラテスは死ぬ
簡単に言うと、二つの事柄が合わさって、全く別の新しい事柄にたどり着くとき、それを演繹と呼ぶ。

演繹を知っていれば、言葉巧みな人々のトリックを、すかさず見破ることもできる。
大切なのは、どうしてそうなるのかを理解しておくことだ。
お気づきかもしれないが、アリストテレスによる前提の定義は、内容の真偽に触れていない。
「言明された一定の事柄」という言い方をしている。
つまり、真実である必要はないのだ。
よって、「全ての人間には羽がある」という前提からスタートしたってかまわない。
「ソクラテスは人間だ」は自明なのだから、結論は「ソクラテスには羽がある」ということになる。
つまり、論理的であれば正しいということにはならない。
それが演繹についてアリストテレスから授かった最初の教訓だ。

鉄壁の演繹を生み出すのは、「普遍的な前提だ」。
たとえ、通常当てはまる、たいていは当てはまるという前提であっても、それでは疑わしい演繹にしかならないということだ。
アリストテレスは、確からしい前提が嘘を言っているとは限らない、と念押ししている。
その前提どおりのことが、本当にあったかもしれないのだから。
それでも、「あったかもしれない」だけでは、「実際どうだったか」わからない。
ありそうなこと、通常はそうなるはずのこと、たぶん起こることというのは、なさそうなこと、普通は起こりそうもないことに比べれば、根拠として理解しやすい。
だから、蓋然的な論証には説得力があるように見える。

不誠実な弁論術的アプローチをあぶりだすためには、論証の欠陥、つまり主張に証拠が伴わないことを指摘するスキルが必要だ。
論証が本当は土台としている原則を見つけることができれば、それがどんな原則か、原則同士がどのように整合性を図っているかも見えてくる。
だから、相手も言わんとするところは何となくわかっても、その論証にとって最も重要な原則を探す習慣が身についてなければ、全ての矛盾を見つけることはできない。


その2「帰納」賢い人は自分を疑う

演繹が、既に知っていることを踏まえて真実を導き出すならば、「既に知っていること」は一体どこから来たのか?
理論を生みだしているのは、演繹と対をなす謎に満ちた双子の兄弟だ。
それがどのようなものなのか理解していれば、人は根拠のない結論に飛びつくことが少なくなるし、間違いも減るだろう。
失敗しても、どこでつまずいたかわかるようになる。
この思考法を、「帰納」と呼ぶ。

アリストテレスの説明はこうだ。
「知覚から記憶が生じ、そして記憶が(同一事象に関連して何度も重なるとき)経験となる。」
物事の特性が二つあり、両者には関連性があると感じたとき、私たちは目の前にある二つ目の特性を、一つ目の特性のしるしだと認識する。
経験上、数少ない体調不良の事例を赤いキノコと結びつけたことがあれば、その関連性を、いつでもどこでも適応できる法則だとして理論化する。
つまり、帰納とはシンプルに言えば、個別事例のしるしから、普遍的な法則を生み出すことなのだ。
ただし、論理の根底にあるのは、「あくまで関連性」そのものだ。

安易な解釈をせず、現実を上手く読み取るためには、以下の二点を心得ておくべきだ。
「帰納はオートマチックに働くこと。帰納には元々限界があること。」
演繹は、「普遍的法則から個別事例へ」向かう確かな一歩であり、帰納はいついかなるときも、「個別事例から普遍的法則へ」の不確かな飛躍でしかない。
気が滅入る帰納の限界を、面白おかしく描写したのはバートランド・ラッセルだった。
七面鳥になったつもりで考えて欲しい。
毎朝決まった時間に、農場主がやってきてエサを与えてくれる。
100日連続して朝のエサづけ儀式が繰り返されるうち、あなたは農場主が近づいてきたらエサを貰えると思うようになっている。
364日間エサづけが続けば、今までで一番多くのデータが集まり、かつてないほど自信たっぷりに365日目も同じことが起こるはずだ。
ところが、せっかく事例を集めて普遍的法則へと一般化したのに、このプロセスの欠陥が証明されてしまう。
クリスマスの朝、農場主は、なんとエサの代わりにナイフを持って現れたのだ。
今日のご馳走は七面鳥、つまりあなただ。
人が帰納的思考における魅力的なパターン発見機能を無邪気に受け入れてしまうのは、極めて人間らしいことなのだ。

これまで見てきた帰納的思考のコンセプトを、心に留めるべき二つのルールに集約すると以下のようになる。
ルール①:Aに伴ってBが起きたからといって、Aが原因でBが起きたとは限らない。
ルール②:AがBの前に起きたからといって、Aが原因でBが起きたとは限らない。
私たちは世界を読み違える。
しかし、どれほど頻繁に、どれほどオートマチックに、どうして読み違えるかを理解すれば、視野は開けるはずだ。


その3「類推」賢い人はたとえ話が上手い

類似性によって、私たちは、ある状況を別の状況に結びつけて考えることができる。
比べ、なぞらえることで物事を表現し、理解し、説明する。
アリストテレスの教えによれば、真理を追究するにも、議論するにも、物事を比較する能力が中心的な役割を果たすという。
だから、議論は、比較合戦になることも多い。
二つの物事の間に共通項を見つけるためにも、私たちは一人一人が技術を持っている。
アリストテレスは何よりもそれを、「天才のしるし」と呼んだ。

類推は、「二つのものがある点で似ているから、別の点でも似ているだろうと推論するのもだ。」
あなたはキャンプに来ている。
仲間の一人がライムを切っているときに、指を切ってしまった。
そのときあなたは、レモンに驚異的な殺菌力があることを思い出した。
今レモンはないが、ライムならある。。
問題は、なぜそのように思い至ったのか。
答えは「類似性(類推)」だ。
類推は二つの物事が共有している「かもしれない」特徴について、両者が「実際に」共有している他の特徴を検討することで、判断を下すのだが、類推には発展性も落とし穴もある。

「類推」の仕組みは、「帰納」とよく似ている。
どちらも出発時点では手元に法則がないからだ。
ただし、帰納が「多くの事例、もしくはすべての事例を引用」して結論を導こうとするのに対し、類推は「たった一つの事例」から結論を出そうとする。
帰納の理想は、ありとあらゆる事例を揃えることだ。
他方、類推はもっと図々しい。
たった一つの事例から法則を作ってしまうのが類推だ。

論証の構造を読み解く心の目を持っていれば、堅実な造りになっているかどうかを分析できる。
類推的思考に優れた人は、類推がつなぐ事例同士のつながりが本当に重要かどうか問い、相違点を探る。
類推という名の基本プロセスがどう働くか知らないままでは、うわべだけの類似性に誘導されてしまう。


その4「実体」賢い人はでたらめを見抜く

「観念はものではない。それが「実体」について考えるための第一歩だ。」
※観念・・物事に対する考え

以下三つの分の違いについて、考えてみよう
①カエルはハエを食べる
②ユニコーンには角がある
③自由は良いものだ
アリストテレスなら、きっとこう言うだろう。
「ユニコーンとはどんなものか、大いに語るとよい。でも、教えて欲しい。そもそも、ユニコーンとは何のか?」
アリストテレスいわく、「存在しないものについては、誰もその性質を知らない。「ユニコーン」という名前だけやフレーズの意味を知っているだけで、ユニコーンの本質は分かっていない」。
自由やユニコーンについて、何を語っても構わないが、「その正しさを証明する術はない」。
ユニコーンも自由も、人の心の中だけに存在する観念なのだから。
必要なのはただ、「それは何か?」を問うことだ。
それだけで「すべてが同じ様式で存在するものとは限らない」と気づく。
世界について、結果を伴う有意義な話がしたければ、できる限り、物の世界を物の世界の手段で説明しなければならない。
しかしながら、観念だけの説明に、思わず頷いてしまうこともある。
そういう説明は、形ある物に言及していないので、手軽に修正を加え、どんな問題も「解決」出来てしまうからだ。


その5「意味」賢い人は曖昧さを避ける

観念が頭の中にしか存在しないなら、どうやって自分が正しいと「証明」できるのか?
どんな考え方をすれば、大切だが捉えどころのない思想、理念について、私たちは話し合えるのだろう。
その答えを探すために、二番の問いと向き合おう。
それは「その意味は?」だ。

アリストテレスが書き残したものの中でも、特にシンプルで秀逸な忠告がある。
「物事には、良いと言われた数だけ良さがある。」
たとえば、良いピザを買ってくるように頼まれたとしよう。
私は、それがどんなピザでも「言われた通りにした」と主張できる。
ある人にとって高級ピザが、別の人にとっては安いピザが良いピザになる。

政治の世界では、「良い」「悪い」「優れた」、その他多くの漠然とした言葉が使われる。
「最善」「正しい行い」「良いこと」などと口に出すのは容易い。
難しいのは、その意味を略さず正確に語ることだ。
だからこそ、「人の意見を不明瞭だと断じる前に、相手に説明する機会を与える」べきなのだ。
そして、状況ごとに必要な明瞭さの度合いを、見極めることも大切だ。


その6「証拠」賢い人は「ひとつの真実」に縛られない

私たちは真実の方向を指し示すために証拠を探す。
議論の勝ち負けも、証拠次第だ。
証拠のない真実は存在しない。
それゆえ、三つ目のといは「何が証拠か?」だ。

わたしたちはよく、実態、意味、証拠に関する厄介な問いには気づかないふりをして何が真実かを語り合う。
でも、あるものが存在するかしないか、どのように存在しているか意見の一致を見なければ、お互いに証拠と見なすものが違うので、相手を納得させることなどできるはずがない。
真実は一つではないし、シンプルでここに切り離されたものでもない。
実体や証拠の捉え方はさまざまで、捉え方の数だけ思考法がある。
でも思考方が答えるべき問いはいつも同じだ。
「それは何か?」
「その意味は?」
「何が証拠か?」
この三つである。
何について論じるか、その存在をどう想定するかによって、「正しさ」を証明する方法が変わってくる。
それゆえ、三つの問いを無視すれば、意味のある話し合いは出来なくなってしまう。


『まとめ』

まず知性をシンプルに述べよう。
「知性とは、何を知っているかではない。どう思考するかだ。」

賢いとは「知性」があるからだ。
知性があるとは「思考力」があるからだ。
思考力を育てるには「知識」という肥料が必要となる。

※知性・・物事を知り、考えたり判断したりする能力
※思考・・考えること
※知識・・ある事柄について、色々と知ること


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