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卒業してから、思う。

私は高校の時に、もっと世界のことを知りたいと思って


国際系の大学学部への進学を決めた。



ありがたくも、志望する大学に入学したわけだが、


周りの優秀さに圧倒されて、世界を股にかける人になるぞ!


という気概もいつの間にか薄れていった。(無くなった訳ではない。)



そして大学の授業もどんどんと難しくなっていき、


精神を病んでいた時期とも運悪く重なり、



単位を落とさざるを得なかったこともある。


また、出席したとて自分の知識の為ではなく

いつの間にかテストに合格するため、卒業するため


に勉強に励んでいる自分がいた。


義務教育は中学で終わりだ。


高校からはいわば膨大なお金を掛けた「自己研鑽」なのである。



にもかかわらず、入学すると卒業することが一番の目的となり(間違いではないのだが)


自分のためではなく、親のため。もしくは体裁のため、に勉強するようになっていった。



その時間がもったいなかったと気づくのは卒業してからだろう。


少なくとも私は今気づいた。



働き始めて、世の中を把握するためにどんなに有益なことを習っていたか。


社会にでて初めて気づくのである。


これに現役で気づける人はそうそういないのではないだろうか。


ああ。この授業今受けたいなあ。


いまなら何をいっているのかもっとクリアに理解できて身にも染みついたはずだ。


パソコンに残っている大学時代の授業のデータファイルを見返して思う。


教科書も捨てなければ良かったな。。。


ただ少しは救いになる考え方としては、


世の中は変化し続けている。


つまり当時授業で習ったことも最新版にアップデートする必要があるのだ。


それを教えてくれる人は今は誰もいない。


自分の情報収集力とメディアリテラシーが自らのprofessorとなるのだ。


なるほど。そう考えれば、


大学時代に学んだことは、知識そのものではなく


知識を得るための知識だったと言うことか。


たしかにsome professors はそのようなことを言っていたような気がする。


その意図するところがいま分かったのかもしれない。

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