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健康な自己愛の欠如により生まれる汚部屋

以前、「汚部屋は人の尊厳を奪う」という記事を書きました。汚部屋で困っている方が多いのか、私の記事の中では多くの方に読んで頂いています(とてもありがたいことですが、複雑な気持ちでもあります)。私自身、子どもの頃、汚部屋に苦しめられてきたので、汚部屋から(物理的には)抜け出したその後も、ず~っと「汚部屋って一体、何なんだろう」ということを考え続けています。(物理的には、というのは、外見上汚部屋ではなくなっても、気持ち的にはまだその影響に引きずられてるってことです)

で、「何で汚部屋になってしまうのか」その原因が分かれば対策が立てられるはず!と思って血眼になって(という表現が当てはまるくらい)関連していそうな書籍を山ほど読んだり、片っ端から動画を見たりしているんですが、私の汚部屋体験にぴたっとくるものがないんです。
そこで今回は、私の経験してきた汚部屋体験の原因について、私がたどり着いた大胆な(悲しい)仮説を綴りたいと思います。この記事は、誰かのことを傷つけてしまうかもしれません。申し訳ありませんが、不快な思いになる方もおられると思います。でも、もしかすると私のような経験をして苦しんできている人がいるのでは?という思いが、どうしても拭い去れず、一度自分の考えをここでまとめてみたいと思います。

汚部屋の背景~これまでに言われてきていること~

汚部屋の背景は、様々です。(汚部屋とゴミ屋敷は違いますが、重なる部分もあるので、ここではゴミ屋敷になってしまう背景も含めてまとめます。)
よく言われるのが、ADHDによる片付けられなさが背景にあって、部屋が散らかってしまうというもの。うつ病などの精神疾患により片付けられなくなったり、ストレスや孤独感からモノを買いすぎる、ためこむ、というようなケース。精神疾患により、セルフネグレクトという状態に陥ってしまう場合もあります。
それから、「ホーダー(ためこみ症)」という精神疾患によるもの。以前はDSMで強迫性障害に分類されていましたが、DSM-Ⅴでは独立した精神疾患として認められています。
そして、加齢による片付けられなさ。高齢になると、認知能力、身体能力等が衰えていって、若い頃だったら片付けられていたものが片付けられなくなってしまうというもの。
夜勤の多いお仕事で、朝のゴミ出しの時間にタイミングがなかなか合わずにゴミが溜まってしまったり、ゴミ出ししたらゴミの分別ができていなくて戻されてしまい、「(大家さん等に)ゴミの中身を見られるんだ」と怖くなってゴミ出しができなくなってどんどん溜まってしまったというケース。
お仕事が忙しすぎて、帰宅した時には疲れ果ててしまって、片付けまで手が回らないということもあります。

こうしたことが、背景としてよく言われていることです。
でもね、私にはどうもしっくりこないんです。こうした背景によって、汚部屋になってしまっている人がいることは事実だと思いますが、私の汚部屋体験とはどこかズレている気がするんです。

健康な自己愛の欠如による汚部屋

色々考えて、たどり着いた結論。それは、「健康な自己愛がないことによって生まれる汚部屋」という分類です。
「自己愛」というと、自己陶酔や自惚れが強いナルシシズムのことを思い浮かべる方が多いかと思いますが、ありのままの自分を認められる心の土台となる「健康な自己愛」という概念があります。この「健康な自己愛」は、幼少期に養育者から温かい愛情をもらい、適切にお世話してもらうことによって育まれます。良いところもダメなところも含めて、自分はこれでいいんだと思えて、自分で自分のことを慈しむ源となります。
ところが、この健康な自己愛が育まれていない場合、周りから称賛されないと生きられず、他者からの評価に敏感になり、自分の欲求を満たすために他者を利用・操作するようになります。こうなると、周囲に向かって自分の素晴らしさを誇示して称賛を集めねばなりません。

部屋の片付けは他者から評価されない

それが、何で汚部屋につながるんでしょうか?
それは、部屋がいくら片付けられていたって、他者から評価されないからです。逆に言えば、他者から評価される場面では、片付けができるんです。(「汚部屋は人の尊厳を奪う」で書きましたが、家庭訪問の時やお客様が来られる時、応接間はぴっかぴかになりました)
え?家族は他者じゃないの?と思われるかもしれませんが、うちの場合は「家族のために、家を片付ける」という概念はなかったように思います。だから私は、自分の尊厳が大事にされていないと感じたんだと思います。

片付けるのは、あくまでも「家族以外の他者」の称賛を得るため。「いいおうちですね」と言ってもらうためでした。私は(今、言葉にしてみたらですが)「家族が快適に過ごせる空間」を「家族のために」整えてもらいたかったんだと思いますが、そもそもそういう発想が母にはなかったと思います。

家の中はぐちゃぐちゃでしたが、母を知っている人は、まさか家の中が汚部屋になっているとは想像もできなかったと思います。外出時には、ばっちりメイク、おしゃれな母はいつも着飾って、たくさんのアクセサリーを身にまとっていました。入学式や卒業式には着物を着て、みんなで写真を撮る時には「全身が映りたい」と言って、一番良いポジションに立っていました。実際母は、「いつも綺麗にしてるね」「おしゃれ」と周りから称賛されていたので、それがこころの支えになっていたんだと思います。

私が片付けたらどうなったか

早く家を出たかった私は、大学生になると同時に他府県で一人暮らしを始めました。たまに帰省した際、汚部屋に滞在するのは気が滅入ります。何で片付けないんだろう、快適な暮らしの方が父母にとってもいいんじゃないか?と思って、少しだけ片付けてみたりもしました。
片付けたといっても、大々的な整理整頓などではなく、キッチン脇にある何がつっこまれているのかよく分からない棚の中(3段くらい)を、食料品は食料品、雑貨は雑貨、ゴミはゴミ箱へ、とざっくり分けて取り出しやすくした、というだけです。

私から見たら、片付けた後の棚は「すっきりして、何がどこにあるか分かりやすくなった。気持ちいい!」と感じました。母は特に何も言いません。(片付けてくれてありがとう、とも言いませんし、何かそのこと自体に触れてはいけない雰囲気でした)

そして何か月かたった後、母方叔母から聞いた話に、私は衝撃を受けました。私が実家から下宿先に戻った後、母は叔母に電話して「〇〇(私)が勝手に片付けた!私が片付けられないと思ってるんだわ!ひどい!」と、泣いて怒ってたっていうんです。それを聞いて、血の気が引きました。片付けして、泣いて怒られるなんて・・・・。娘とはいえ、もう家を出ている身で、母の家庭のことに勝手に手を出したのは、越権行為だったんでしょうか。悔しい気持ち、情けない気持ち、悲しさ、無力感、ショック・・・。その時の私は、色んな気持ちがごちゃ混ぜになって、受け止めきれていなかったと思います。

母が泣いて怒ったわけ

何で母は泣いて怒っていたんでしょう。
健康な自己愛が育まれていないと、自分のダメなところや弱さを認めることができません。批判や指摘を受けると、怒りを感じ、指摘を否定したり、自分を守るために相手を攻撃したりします。
私が実家を片付けたという行為は、(私はそんなこと意図していなかったんですが)母の片付けられなさを指摘し、批判したことになってしまったんですね。批判されたと思った母は母で、ショックと怒りを感じていたんだと思います。幸いと言うべきか、その攻撃性が私に向くことはなく、間接的に聞くにとどまりましたが・・・。
それから私は、実家の片付けには手を出さなくなり、汚部屋は片付くことなく、話題にされることもなく時が過ぎていきました。

こんなこと書いて、私って意地悪だなあと悲しくなります。そんな意地悪な見方しなくてもいいやん、お母さんかわいそう、と思った方もおられると思います。私も、他の人の立場だったらそう思っていたかもしれません。それでもやっぱり、そこに住む人の尊厳を守るために、汚部屋は何とかしたいと思ってしまうんですよね。

これまで、ここまではっきりとは言語化したことのなかった「健康な自己愛の欠如により生まれる汚部屋」という考察。身を引き裂かれながら言葉にしてみました。こんな汚部屋体験されてきた方、おられないでしょうか。私だけかな。
読んで下さった方も、何だかこころが苦しくなったんじゃないかと心配になりますが、暗い話を最後まで読んで下さって、ありがとうございました。
世界から、悲しい汚部屋がひとつでも減りますように。

おわり



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