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弔辞 考察

岸田総理 弔辞全文

 従一位、大勲位菊花章頸飾、安倍晋三・元内閣総理大臣の、国葬儀が執り行われるに当たり、ここに、政府を代表し、謹んで、追悼のことばを捧げます。
 七月八日、選挙戦が最終盤を迎える中、安倍さん、あなたは、いつもの通り、この国の歩むべき道を、聴衆の前で熱く語りかけておられた。 そして、突然、それは、暴力によってさえぎられた。 あってはならないことが起きてしまいました。 いったい誰が、こんな日が来ることを、寸毫なりとも予知することができたでしょうか。 安倍さん、あなたは、まだまだ、長く、生きていてもらわなければならない人でした。 日本と世界の行く末を示す羅針盤として、この先も、十年、いや二十年、力を尽くしてくださるものと、わたくしは、確信しておりました。 わたくしばかりでは、ありません、本日、ここに、日本の各界各層から、世界中の国と地域から、あなたを惜しむ方々が、参列してくださいました。 みな、同じ思いをもって、あなたのお姿に、まなざしを注いでいるはずです。 しかしそれは、もはや、叶うことはない。 残念でなりません。 痛恨の極みであります。
 二十九年前、第四十回衆議院議員総選挙に、あなたと、わたくしは、初めて当選し、ともに、政治の世界へ飛び込みました。 わたくしは、同期の一人として、安全保障、外交について、さらには経済、社会保障に関しても、勉強と、研鑽に、たゆみなかったあなたの姿を、つぶさに見てまいりました。 なによりも、北朝鮮が日本国民を連れ去った拉致事件について、あなたは、まだ議会に席を得るはるか前から、強い憤りをもち、並々ならぬ正義感をもって、関心を深めておられた姿を、わたくしは知っています。 被害者の方々を、ついに連れ戻すことができなかったことは、さぞかし無念であったでしょう。 わたくしはあなたの遺志を継ぎ、一日千秋の思いで待つご家族のもとに、拉致被害者が帰ってくることができるよう、全力を尽くす所存です。
 平成十八年、あなたは、五十二歳で、内閣総理大臣になりました。 戦後に生を受けた人として、初めての例でした。 わたしたち世代の旗手として、当時あなたが、戦後置き去りにされた、国家の根幹的な課題に、次々とチャレンジされるのを、期待と、興奮をもって眺めたことを、今、思い起こしております。 わたしたちの国日本は、美しい自然に恵まれた、長い歴史と独自の文化を持つだ。 まだまだ大いなる可能性を秘めている。 それを引き出すのは、わたしたちの勇気と、英知と、努力である。 日本人であることを誇りに思い、日本の明日のために何をなすべきかを語り合おうではないか。 戦後最も若い総理大臣が発した、国民へのメッセージは、シンプルで明快でした。 戦後レジームからの脱却――。
 防衛庁を、独自の予算編成ができる防衛省に昇格させ、国民投票法を制定して、憲法改正に向けた、大きな橋を架けられました。 教育基本法を、約六十年ぶりに改めて、新しい、日本のアイデンティティの種を蒔きました。 インドの国会に立ったあなたは、「二つの海の交わり」を説いて、「インド太平洋」という概念を、初めて打ち出しました。 これらはすべて、今日につらなる、いしずえです。
 そのころあなたは国会で、「総理大臣とはどういうものか」との質問をうけ、溶けた鉄を鋳型に流し込めばそれでできる鋳造品ではない、と答えています。 叩かれて、叩かれて、やっと形をなす鍛造品。 それが総理というものだ、と、そう言っています。 鉄鋼マンとして世に出た人らしいたとえです。 そんなあなたにとって、わずか一年で総理の職務に自ら終止符を打たねばならなかったことくらい、つらい事はなかったでありましょう。
 しかしわたしたちはもう、よく承知しています。 平成二十四年の暮れ、もう一度総理の座につくまでに、あなたは、みずからを、いっそう強い鍛造品として鍛えていたのです。 「二つの海の交わり」を説いたあなたは、さらに考えを深め、「自由で開かれたインド太平洋」という、たくさんの国、多くの人々を包摂する枠組みへと育てました。 米国との関係を格段に強化し、日米の抑止力を飛躍的に強くしたうえに、年来の主張にもとづき、インド、オーストラリアとの連携を充実させて、「クアッド」の枠組みをつくりました。 あなたの重層的な外交は、世界のどの地域とも良好な関係を築かれた。 欧州との経済連携協定と戦略的パートナーシップ協定の締結、そして、アジア地域、ユーラシア地域、中東、アフリカ、中南米地域と、これまでにない果断で率直な外交を展開され、次々と深い協力関係を築かれていった。 平和安全法制、特定秘密保護法など、苦しい経過を乗り切って、あなたは成就させ、ために、わが国の安全は、より一層保てるようになりました。
 日本と、地域、さらには世界の安全を支える頼もしい屋根をかけ、自由、民主主義、人権と法の支配を重んじる開かれた国際秩序の維持増進に、世界のだれより力を尽くしたのは、安倍晋三その人でした。
 わたくしは、外務大臣として、その同じ時代を生きてきた盟友としてあなたの内閣に加わり、日本外交の地平を広げる仕事に、一意専心取り組むことができたことを、一生の誇りとすることでしょう。
 国内にあっては、あなたは若い人々を、とりわけ女性を励ましました。 子育ての負担を、少しでもやわらげることで、希望出生率をかなえようと、努力をされた。 消費税を上げるかわりに、増える歳入を、保育費や学費を下げる途に用いる決断をしたのは、その途の先に、自信を取り戻した日本の若者が、新しい何かを生み出して、日本を前に進めてくれるに違いないと、信じていたからです。 あなたはわが国憲政史上最も長く政権にありましたが、歴史は、その長さよりも、達成した事績によって、あなたを記憶することでしょう。
 「勇とは義(ただ)しき事をなすことなり」、という新渡戸稲造の言葉を、あなたはいちど、防衛大学校の卒業式で使っています。
 Courage is doing what is right .安倍さん。 あなたこそ、勇気の人でありました。 一途な誠の人、熱い情けの人であって、友人をこよなく大切にし、昭恵夫人を深く愛したよき夫でもあったあなたのことを、わたくしは、いつまでも、懐かしく思い出すだろうと思います。 そして、日本の、世界中の多くの人たちが、「安倍総理の頃」「安倍総理の時代」などと、あなたを懐かしむに違いありません。 あなたが敷いた土台のうえに、持続的で、すべての人が輝く包摂的な日本を、地域を、世界をつくっていくことを誓いとしてここに述べ、追悼の辞といたいます。 安倍さん、安倍総理。 お疲れさまでした。 そして、本当にありがとうございました。 どうか、安らかにおやすみください。
 令和四年九月二十七日 日本国内閣総理大臣、岸田文雄


 約13分半、東京五輪で「長い」と揶揄されたバッハ会長のスピーチ並に長い校長先生の話のようだと言われた岸田総理の弔辞は、総理大臣としてのものなので、地球を俯瞰した外交を展開した安倍元総理の実績を事実ベースで淡々と述べられている印象で、菅前総理とは対称的な評価でした。弔辞の中で英語を混ぜるあたりがマスメディアにツッコミの対象となっていました。鉄鋼マンのくだりがありましたが、安倍さんは神戸製鋼に勤務されていた時があったようで、まるで華麗なる一族みたいですが、当時はまさに「鉄は国家なり」の時代でしょうか、高炉建設、工場の煙がもくもくと立ち上がり、豊かになっていく国を目の当たりにしつつもめちゃくちゃ戦後レジームの中の人だったのかもしれません。

菅前総理 弔辞全文

七月、八日でした。

信じられない一報を耳にし、とにかく一命をとりとめてほしい。

あなたにお目にかかりたい、同じ空間で、同じ空気を共にしたい。

その一心で、現地に向かい、そして、あなたならではの、あたたかな、ほほえみに、最後の一瞬、接することができました。

あの、運命の日から、八十日が経ってしまいました。

あれからも、朝は来て、日は、暮れていきます。

やかましかったセミは、いつのまにか鳴りをひそめ、高い空には、秋の雲がたなびくようになりました。

季節は、歩みを進めます。

あなたという人がいないのに、時は過ぎる。

無情にも過ぎていくことに、私は、いまだに、許せないものを覚えます。

天はなぜ、よりにもよって、このような悲劇を現実にし、いのちを失ってはならない人から、生命を、召し上げてしまったのか。

口惜しくてなりません。

哀しみと、怒りを、交互に感じながら、今日の、この日を、迎えました。

しかし、安倍総理…と、お呼びしますが、ご覧になれますか。

ここ、武道館の周りには、花をささげよう、国葬儀に立ちあおうと、たくさんの人が集まってくれています。

二十代、三十代の人たちが、少なくないようです。

明日を担う若者たちが、大勢、あなたを慕い、あなたを見送りに来ています。

総理あなたは、今日よりも、明日の方が良くなる日本を創りたい。

若い人たちに希望を持たせたいという、強い信念を持ち、毎日、毎日、国民に語りかけておられた。

そして、日本よ、日本人よ、世界の真ん中で咲きほこれ。

―これが、あなたの口癖でした。

次の時代を担う人々が、未来を明るく思い描いて、初めて、経済も成長するのだと。

いま、あなたを惜しむ若い人たちがこんなにもたくさんいるということは、歩みをともにした者として、これ以上に嬉しいことはありません。

報われた思いであります。

平成十二年、日本政府は、北朝鮮にコメを送ろうとしておりました。

私は、当選まだ二回の議員でしたが、「草の根の国民に届くのならよいが、その保証がない限り、軍部を肥やすようなことはすべきでない」と言って、自民党総務会で、大反対の意見をぶちましたところ、これが、新聞に載りました。

すると、記事を見たあなたは、「会いたい」と、電話をかけてくれました。

「菅さんの言っていることは正しい。北朝鮮が拉致した日本人を取り戻すため、一緒に行動してくれれば嬉しい」と、そういうお話でした。

信念と迫力に満ちた、あの時のあなたの言葉は、その後の私自身の、政治活動の糧となりました。

その、まっすぐな目、信念を貫こうとする姿勢に打たれ、私は、直感しました。

この人こそは、いつか総理になる人、ならねばならない人なのだと、確信をしたのであります。

私が、生涯誇りとするのは、この確信において、一度として、揺らがなかったことであります。

総理あなたは一度、持病が悪くなって、総理の座をしりぞきました。

そのことを負い目に思って、二度目の自民党総裁選出馬を、ずいぶんと迷っておられました。

最後には、二人で、銀座の焼鳥屋に行き、私は、一生懸命、あなたを口説きました

それが、使命だと思ったからです。

三時間後には、ようやく、首をタテに振ってくれた

私はこのことを、菅義偉生涯最大の達成として、いつまでも、誇らしく思うであろうと思います。

総理が官邸にいるときは、欠かさず、一日に一度、気兼ねのない話をしました

いまでも、ふと、ひとりになると、そうした日々の様子が、まざまざと、よみがえってまいります。

TPP交渉に入るのを、私は、できれば時間をかけたほうがいいという立場でした。

総理は、「タイミングを失してはならない。やるなら早いほうがいい」という意見で、どちらが正しかったかは、もはや歴史が証明済みです。

一歩後退すると、勢いを失う。

前進してこそ、活路が開けると思っていたのでしょう。

総理、あなたの判断はいつも正しかった

安倍総理

日本国は、あなたという歴史上かけがえのないリーダーをいただいたからこそ、特定秘密保護法、一連の平和安全法制、改正組織犯罪処罰法など、難しかった法案を、すべて成立させることができました。

どのひとつを欠いても、我が国の安全は、確固たるものにはならない。

あなたの信念、そして決意に、私たちは、とこしえの感謝をささげるものであります。

国難を突破し、強い日本を創る。

そして、真の平和国家日本を希求し、日本を、あらゆる分野で世界に貢献できる国にする。

そんな、覚悟と、決断の毎日が続く中にあっても、総理あなたは、常に笑顔を絶やさなかった

いつも、まわりの人たちに心を配り、優しさを降り注いだ

総理大臣官邸で共に過ごし、あらゆる苦楽を共にした七年八か月。

私は本当に幸せでした。

私だけではなく、すべてのスタッフたちが、あの厳しい日々の中で、明るく、生き生きと働いていたことを思い起こします。

何度でも申し上げます。

安倍総理あなたは、我が日本国にとっての、真のリーダーでした。

衆議院第一議員会館、千二百十二号室の、あなたの机には、読みかけの本が一冊、ありました

岡義武著『山県有朋』です。

ここまで読んだ、という、最後のページは、端を折ってありました

そしてそのページには、マーカーペンで、線を引いたところがありました

しるしをつけた箇所にあったのは、いみじくも、山県有朋が、長年の盟友、伊藤博文に先立たれ、故人を偲んで詠んだ歌でありました

総理、いま、この歌くらい、私自身の思いをよく詠んだ一首はありません

かたりあひて 尽しゝ人は 先立ちぬ 今より後の 世をいかにせむ
かたりあひて 尽しゝ人は 先立ちぬ 今より後の 世をいかにせむ


深い哀しみと、寂しさを覚えます。

総理、本当に、ありがとうございました。

どうか安らかに、お休みください。

令和四年九月二十七日 前内閣総理大臣、友人代表 菅義偉


 約12分、約2400字、まるで恋文と評価された追悼の辞。女房役の官房長官を長く経験され、「あなた」と「総理」を織り交ぜ、時折、声を詰まらせ、震わせながら語りかける手法。総理大臣の時には自分の言葉でなかなか語れなかったのか、これは電通案件だとかスピーチライターでもいるのかと言われるほどでしたが、「七月……」とか「信じられない」とか「とにかく」というのは番記者的には菅さんらしいということみたいですので、定型文ではない自分自身の言葉がのったものだったのではないでしょうか。主観ベースで情緒的、感情に訴えかける文体。焼き鳥屋のくだりではあたかも安倍政権を誕生させたのは自分だと言わんばかりに手柄を全部持っていかれたとか書かれていましたが、いろんな人から安倍さんを推す声があり、あの時にはすでに腹は決まっていたので、3時間も固辞することはなかっただろうし、菅さんはせいぜい背中を押したくらいで、ちょっと話を盛ったのではないかと言われていましたが、そうだとしてもこのエピソードからやはり菅さんは参謀役というか裏でチクチクと影でお支えする側が向いている人だったんだろうなとうかがわせるものでした。昭恵夫人も涙をすすっておられました。そして、最後の山県有朋の話は本人にしか知り得ない事実であり、胸を打たれるところであり、タモさんの故赤塚不二夫氏への白紙の弔辞の最後、「私もあなたの数多くの作品の一つです」と締めくくった平成のベスト弔辞と言われたものくらいの名シーンだったかもしれません。

参考 タモリさん 弔辞全文

 弔辞 八月の二日にあなたの訃報に接しました。六年間の長きにわたる闘病生活の中で、ほんのわずかではありますが回復に向かっていたのに、本当に残念です。

 われわれの世代は赤塚先生の作品に影響された第一世代と言っていいでしょう。あなたの今までになかった作品やその特異なキャラクター。私たち世代に強烈に受け入れられました。十代の終わりから、われわれの青春は赤塚不二夫一色でした。

 何年か過ぎ、私がお笑いの世界を目指して、九州から上京して、歌舞伎町の裏の小さなバーで、ライブみたいなことをやっていたときに、あなたは突然私の眼前に現れました。その時のことは今でもはっきりと覚えています。赤塚不二夫が来た。あれが赤塚不二夫だ。私を見ている。この突然の出来事で、重大なことに私はあがることすらできませんでした。

 終わって私のところにやってきたあなたは「君はおもしろい。お笑いの世界に入れ。八月の終わりに僕の番組があるから、それに出ろ。それまでは住むところがないから、私のマンションに居ろ」と、こう言いました。自分の人生にも他人の人生にも影響を及ぼすような大きな決断をこの人はこの場でしたのです。それにも度肝を抜かれました。

 それから長いつきあいが始まりました。しばらくは毎日、新宿の「ひとみ寿司」というところで夕方に集まっては、深夜までどんちゃん騒ぎをし、いろんなネタを作りながら、あなたに教えを受けました。いろんなことを語ってくれました。お笑いのこと、映画のこと、絵画のこと、ほかのこともいろいろとあなたに学びました。あなたが私に言ってくれたことは、いまだに私にとって金言として心の中に残っています。そして、仕事に生かしております。

 赤塚先生はほんとうに優しい方です。シャイな方です。マージャンをするときも、相手の振り込みで上がると、相手が機嫌を悪くするのを恐れて、ツモでしか上がりませんでした。あなたがマージャンで勝ったところを見たことがありません。

 その裏には強烈な反骨精神もありました。あなたはすべての人を快く受け入れました。そのためにだまされたことも数々あります。金銭的にも大きな打撃を受けたこともあります。しかしあなたから後悔の言葉や、相手を恨む言葉を聞いたことがありません。

 あなたは私の父のようであり、兄のようであり、そして時折見せる、あの底抜けに無邪気な笑顔は、はるか年下の弟のようでもありました。

 あなたは生活すべてがギャグでした。たこちゃん(たこ八郎さん)の葬儀の時に、大きく笑いながらも、目からはボロボロと涙がこぼれ落ち、出棺の時、たこちゃんのひたいをピシャリとたたいては「この野郎、逝きやがった」とまた高笑いしながら、大きな涙を流してました。あなたはギャグによって物事を動かしていったのです。

 あなたの考えは、すべての出来事、存在をあるがままに前向きに肯定し、受け入れることです。それによって人間は、重苦しい意味の世界から解放され、軽やかになり、また時間は前後関係を絶ちはなたれて、その時その場が異様に明るく感じられます。この考えをあなたは見事にひとことで言い表してます。すなわち、「これでいいのだ」と。

 いま、二人で過ごしたいろんな出来事が、場面が思い浮かんでいます。軽井沢で過ごした何度かの正月。伊豆での正月。そして海外へのあの珍道中。どれもが本当に、こんな楽しいことがあっていいのかと思うばかりのすばらしい時間でした。最後になったのが、京都五山の送り火です。あの時のあなたの柔和な笑顔は、お互いの労をねぎらっているようで、一生忘れることができません。

 あなたはいまこの会場のどこか片隅に、ちょっと高いところから、あぐらをかいて、ひじをつき、ニコニコと眺めていることでしょう。そして私に「おまえもお笑いやってるなら、弔辞で笑わしてみろ」と言ってるに違いありません。あなたにとって死もひとつのギャグなのかもしれません。私は人生で初めて読む弔辞があなたへのものとは、夢想だにしませんでした。

 私はあなたに生前お世話になりながら、ひと言もお礼を言ったことがありません。それは肉親以上の関係であるあなたとの間に、お礼を言う時に漂う他人行儀な雰囲気がたまらなかったのです。あなたも同じ考えだということを他人を通じて知りました。しかし、今お礼を言わさせていただきます。

 赤塚先生本当にお世話になりました。ありがとうございました。

 私もあなたの数多くの作品のひとつです。

 合掌。

 平成二十年八月七日 森田一義


 約8分、長文にも関わらず、すぅっと胸に入ってくるというか、長年、世にも奇妙な物語のストーリーテラーをされていましたし、聞き入ってしまうすべを有してらっしゃるのかもしれません。修辞法、レトリックを駆使し、情景をリアルタイムで感じさせ、日本語らしい二文を一文にまとめた連帯修飾を交ぜながら、締めの一文で余韻を与える。すばらかしいです。

 このように、葬儀、告別式は勿論故人を悼む、偲ぶ儀式ではあるのですが、弔辞を披露する場でもあるような……、リーマンショック以降、欧米各国が大規模金融緩和策をとり、今では考えられないような円高になり、その中で日本のリーダーが1年交代でコロコロ変わり、自民党が下野し、安倍さんの言う「悪夢のような民主党政権」において、極めつけは(阪神淡路大震災でもそうでしたが、よりによってなんでこんな時に……という悪いタイミングで)東日本大震災があり、強いリーダーシップが求められた中で誕生した安定した長期政権の功罪、国葬には賛否両論ありましたが、今をこれからを生きる人たちのために、残された人が、意志を継ぐ者が行うものなのかもしれません。

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