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#小説
いつか忘れる話(小説)
夫がトイレに行くというので、大型ショッピングモールのレストラン街を時間つぶしになんとなく歩き始めた。抱っこひもで眠る娘の頭ががくんと後ろにのけぞっている。額の寝汗を指でぬぐった。娘がむずがるように言葉にならない声を出す。上下に動かすと首がゆさっゆさっと揺れるのが心地よいのか、また、娘は眠りの世界に落ちて行った。
弾むように歩く。行き交う人を見るともなしに見て、レストランの食品サンプルを見て、また、
POISON of LOVE(小説)
愛は怖いです。怖すぎます、つーか毒です。これはもう私史上最高の名言ってことにしておいてください。二つ下の後輩が、四個上の先輩と付き合っていて、ああつまり私の二個上の先輩ってことになるんですけど、その彼氏なんてほんとにひどいもんで、スカート履くな、男がいる飲み会はいくら職場の付き合いであっても参加するな、それより俺様に毎晩電話しろ、とか言うんですって。と思えば急にいじいじしだして泣き出して、夜も寝れ
もっとみるuntitled(小説)
築三十八年のアパート、六畳の部屋の畳は色褪せて、うす暗闇の中では全てがモノクロ映画のようだった。片方だけ開けた窓の、アルミサッシに美栄子は腰かけている。あらわになった太ももに食い込む銀色の金属が鈍く光っていた。美栄子の太ももは、爪楊枝で突けばはじけてしまいそうなのに、マシュマロのようにやわらかくもある。彼女の太ももは妖艶で美しい。
「起きてるなら、声かけなよ」
頭上から声が降ってくる。答えないでも
Dear My Sister(小説)
「たぁこちゃん」
小さな子どもの声というのはとても独特だと思う。休日のショッピングセンターや昼間の公園、そういうところから聞こえる彼らの声は決して私の世界とは交わらないと思える。甲高いとは違う、媚をうる女の声とも違う、滑らかで甘いザラメの付いた飴玉のようで、タマゴボーロのようで、小さなキーホルダーのようで、でもどれでもない、軽やかなひねりを持った声だ。その声に、自分の名前を呼ばれたことにどぎま
短歌に寄せる三つの掌編(小説)
1
たまごサンドをつくろうと思ったのだった。市販のサンドイッチはどこか機械めいた匂いがするから、サンドイッチだけでなく、市販の食べ物なにもかもが機械めいた匂いがするから、なんでも作ろうと思ったのだった。
蛇口をひねり、細く水を流しながらたまごの殻をむく。朝六時半。台所にある給湯器横の窓から、朝の静かな光が注いでいた。隣人の部屋から目覚まし時計が鳴る。止まる。動く音がかすかに聞こえた。知らない隣
さくらのよる(小説)
「桜は好きだけど桜が散った後は気持ち悪くて、遠目で見るのも苦手。桜の花びらが散ってしまった後の枝には、赤茶けたがくの部分が残っていて、それがぶわりと密集していて、美しいあの薄桃色の花びらで隠していた汚い部分が一斉に露見しているみたいで気持ち悪いだろ」
と佐倉は言った。あんたと同じなまえじゃん、と私が短く言うと、俺は「さくら」じゃなくて「佐倉」だからと微妙に発音を変えてもらえますかねと面倒な感じで