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#詩的散文

#38 渡し守

#38 渡し守

 白熱電球の微光が、夜の霧を貫いています。ここはひどく寒い。雪にとざされたローカル線末端の駅の待合は、まるで暗闇の大洋に浮かぶ一艘の帆船です。排気ガスを吸い込んだ雪のような、わたしの制帽の下のくすんで醜いグレーの髪がガラス窓に映って、悲しみでもなく、達成感でもないうつろな感情が、しずかに立ちあがってくるようです。待合の石油ストーブの上にかけた薬缶のお湯が、少しずつ気体となって、わたしにわたしが生き

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#34 まわる

#34 まわる

 コインランドリーの大きな洗濯機の窓たち。柔軟剤の香り。流れてゆく時間。LED電球の過剰な明るさ。待合椅子。洗濯機の規則的な駆動音は輪唱となって、しずかに空気を揺らす。人々の暮らしは、色とりどりの渦のなか。洗濯機の円い窓の奥のほうに、わずかな暗がりがあり、そこにはほのかに悲しみが淀んでる。夜に浮かぶ小さな小舟の中で、動力部のように、それはまわっている。まわってゆく。

 生活はまわる。きょうも。き

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#28 モガディシュの月

#28 モガディシュの月

 まだ年端も行かない少年だ。目の隈は深く、その碧の眼はくすんだ灰色を含んでいる。浅黒い肌には若さに似合わぬ古い、えぐれた傷跡が残っている。暴力的にほそい手足は、どこか寂しく、けれども弱さは感じさせない。彼の弱さは彼の抱える銃にあった。AK47式機関銃。泥にまみれたそれは、未だ重い感慨をもって彼のふたつの腕が支えている。替えのマガジンはない。弾が出るのかも、彼はまだ知らない。それは少年が生きていく、

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#20 火

「いっそこの火になりたいわ。ただ自由に燃えて、その時が来たら、おしまい。」と彼女が言った。夜空より純な黒く、長い髪が揺れていたことは覚えている。彼女は私の眼をまっすぐに見据えた。それは決して攻撃的ではなかったけれど、銃口を向けられているような緊張感があった。二人以外には何もない海辺だった。

「火が人間を作ったのに、人間は火を制御しようとしてきた。皮肉な話よね。」彼女の眼の中には確かに炎があった。

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#18 誘蛾灯

#18 誘蛾灯

 誘蛾灯に吸い込まれた羽虫は、爆ぜるような閃光を最後に放った。それは電線がショートするような、くぐもった音だった。同時にそれは、夜が死の季節であることの象徴のようにわたしに思わせた。わたしは冷醒な眼で、それを見つめた。最期の火花は美しかった。わたしは彼の一生を知らないが、死ぬ瞬間だけは、しっかりと見ていたのである。それは生を自覚せず、死だけが浮き彫りになるこの世界の人間の有り様。生は暗い闇の中に、

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