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#38 渡し守

 白熱電球の微光が、夜の霧を貫いています。ここはひどく寒い。雪にとざされたローカル線末端の駅の待合は、まるで暗闇の大洋に浮かぶ一艘の帆船です。排気ガスを吸い込んだ雪のような、わたしの制帽の下のくすんで醜いグレーの髪がガラス窓に映って、悲しみでもなく、達成感でもないうつろな感情が、しずかに立ちあがってくるようです。待合の石油ストーブの上にかけた薬缶のお湯が、少しずつ気体となって、わたしにわたしが生きていることを伝えようとします。刹那、遠くからディーゼルの駆動が聞こえて、列車が入ってくるだろうことがわかります。わたしは重い腰を上げて、幾年も握ってきた手旗をもちました。わたしの一日と、この駅が、終ろうとしているのかもしれません。軛は深夜静かにやってきて、私たちに終わりを告げるのでしょう。そして憎しみと郷愁にも。積みあがった雪の中、わたしはけれども寒くはありません。それは記憶の質量みたいなものです。遠い昔、戦争へ若衆を連れて行ったのも、出稼ぎの人びとを鉄くずの街へ送り出したのも、わたしを愛したあの人を乗せていったのも、この駅、この箱でありました。この駅から、すべての人々は旅立つんです。そして彼らは、一人として帰らない。わたしは数えるのを辞めました。そしてわたしは彼らのひとつひとつの顔にさようならをするんです。ここは生と死との分水嶺。あれに乗ればきっと死ぬのと同じで、二度と会うことはないでしょう。わたしは「何か」をずっと憎んでいるんです。憎くて仕方ありません。この絶対的な分断。ストーブの火の上の薬缶みたいに、ただ水を外に送り出すだけ。その身は静かに焼かれていることにも気づかない。人生なんてもんに意味はありません。わたしに意味があるとしたら、もうここで石になるまでひたすら憎しみを続けることだけなんでしょう。


ああ、あなたもお乗りになられるので?

でしたら・・・どうか・・・


―さようなら。