![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/25278829/rectangle_large_type_2_11da54ded7a755557cbb871f229f34a3.jpeg?width=800)
最後のふたり
想像してほしい。
その地では、それから先はもう新しい命が誕生することはない。
ひとり、またひとりと、人が死んでいく。
死んだ者を皆が弔う。穴を掘り、墓を作り、皆が弔う。
最後のひとりだけは誰にも弔ってもらうこともない。
もしも、最後の「ふたり」になったら、先に死にたい?後に死にたい?
もしも、相手が自分の愛する人ならば、自分はその人を弔ってあげたい。自分の恋人でも、親でも、子どもでも。自分の愛する人とふたりになってしまったら、最後に死ぬのは自分がいい。
愛する相手でないならば、どちらが先でも構わない。
弔うことは「きまりごと」だから。でも、相手の弔わなかったとしても誰が自分を責めるだろう?
弔いは、最後の何人まで行われるのだろう?
だけど、もしも、最後に残るのがキミとふたりだとしたら、どうか一緒に死んでいこう。
ふたりで一緒に朽ちていこう。
むしろ、最後に残るのは、キミとふたりならいいのにと思ってしまう。
「そう思うのは迷惑かな?」
「いや、むしろ、そう思ってもらえて光栄だ」