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現実を生きること、言葉を生きること―東京都同情塔書評(考察・感想)

 東京都同情塔の主人公の語りは、かなり特徴的だ。まず一つの言葉を使ったら、その言葉がどう受け取られるか配慮を始め、エラーの排除と納得に向かって永遠と考え続けていく。

狂ってる。何が?頭が狂ってる。いや、「頭」はあまりに範囲が広いか?違う、むしろ狭いのだ。それに、「頭が狂ってる」と言うと、精神障碍者に対する差別表現とも受け取られかねない。

九段理江『東京都同情塔』、『文藝春秋』2024年3月号、p.272

といった具合だ。この兆候は、サラが設計している塔に「シンパシータワートーキョー」という名前が付けられたと知ったときから始まる。ただの「塔」でしかなく、それ以上でもそれ以下でもなかったものが、言葉が与えられた瞬間に様々な意味を持ち始めるのだ。
 
 彼女の語りが特徴的な理由、それは一見、彼女が言葉の世界で迷子になってしまったからのようにも見える。だが、実はそうではない。言葉が溢れて氾濫しているこの『東京都同情塔』だが、彼女が生きているのは言葉の世界をも含む現実なのだ。それどころか、彼女は現実を生きるだけでは生きたりず、あまりに肥大化した現実を生きている。
 
 例えば、彼女は

建築家には未来が見える。建築家が見ようとしなくても、未来はいつも自分から、建築家の前に姿を現す。

九段理江『東京都同情塔』、『文藝春秋』2024年3月号、p270

と考えている。建築を通して最初は頭の中にしかなかった設計図が実際に存在する「建築物」として世の中に出現することを意味しており、建築が「抽象」から「具象」に変わるという前提をもっているということだと考えられる。つまり、サラは大多数の人間が出入りすることになる建物を建てる=大勢の未来を実際に、現実的に背負っているという風に捉えられる人物なのだ。
 
 この主人公の状況と、現代を生きる人間の状況には、類似点と相違点がある。
現代を生きる人間もまた、SNSなどを通じて大多数に向けて発信することに慣れている。そうして、主人公と同じように言葉の端々に注意することによってマイルドな言葉選びをすることで、現実を最も問題のない角度から捉えた言葉にすることに慣れている人も多いだろう。だが、サラが多くの現代人と異なるのは、その言葉が実際に未来を変える力があると信じ、変える未来の具体像のコントロール権を全て握っていたいという前提がある点だ。本作に何度も登場するAIの言葉を「無傷で言葉を盗むことに慣れきって、その無知を疑いもせず恥じもしない。人間が「差別」という語を使いこなすようになるまでに、どこの誰がどのような種類の苦痛を味わってきたかについて関心を払わない」と評しているが、AIの話す言葉が個人に向けて言い方を変えられたものではなく誰が聞いても正解になるように平均化された言葉だとすると、サラの言葉遣いには皮肉にもAIに似ているところがある。サラと親しくしているタクトに代表されるような平均的な現代人からすると、サラは責任感とコントロール欲求が相対的に強いように感じられる。多数に配慮しすぎた結果、言葉を見えない多方面から削られてそうなってしまっているように見える。だがその結果言葉が逆にAIに似ていくのは支配欲と現実を変える気概からくる必然の現象だ。
 
 サラの語りは、そういったサラが「世界に影響を与えるような巨大建築物の建築家」だという側面から見て初めて納得できるものである。その影響力と責任感と「未来を見通す力」の元に、支配欲を混ぜるとサラが東京都同情塔に次のような危機感を抱くのは理解ができる。

各々の勝手な感性で言葉を濫用し、捏造し、拡大し、排除した。その当然の帰結として、互いの言っていることがわからなくなる。喋った先から言葉はすべて、他人には理解不能な独り言になる。独り言が世界を席巻する。大独り言時代の到来。

九段理江『東京都同情塔』、『文藝春秋』2024年3月号、p.270

とサラは語るが、それは至極当然のことで、建築物という実際に存在するものを通して権力が意味を分散させ、個人が現象や事物にそれぞれの意味を付与するずっと前から起こっていることである。全ての言葉は独り言であり、その言葉を獲得した背景の違う他の個人に正確に伝えることなどできはしない。
 
 その伝えられなさと通じ合うことの不可能性は、むしろ自由ではないか。
 
言葉で言い方を変えるなら

各々の勝手な感性で言葉を濫用し、捏造し、拡大し、排除した。

九段理江『東京都同情塔』、『文藝春秋』2024年3月号、270

とあるが、言葉はそれぞれの感性によって使われるものだ。社会的なものではなく個人的なものとしての側面ももつ。感性を目の前の一人に向かってすり合わせて言葉を使い、その通じなさにじれったさを感じてその背景の違いに恋焦がれたり、嫌悪感を抱いたり。「東京都同情塔」のような触れられる現実がある前提の外で、抽象的な心を捏造したり拡大したり、そうやって伝え方を変えたり。排除ではなく、相手に合わせて言葉を削ることもあるだろう。そのような営みがあってこそ、他人によって自分が侵されない自由が守られると思う。またその自由の中で、相手を飲み込んだり自分を飲み込まれたりしない(つまりお互いのコントール下にないような)言葉の使い方が可能だと考える。
 
 東京都同情塔のことをサラが最初、意味づけされる前の姿として単なる「塔」と認識していたことから、サラは構造や意味の前にモノがあると考えていたことが伺える。また、

人間が生まれてくることにもっともらしい理由を付ける必要がないように、本来なら建築を建てるための言葉を、強いてでっち上げる必要などないはずだ。

九段理江『東京都同情塔』、『文藝春秋』2024年3月号、p350

と語っていることからも、実存を信じている人物といえる。そして、「出入り可能」なものとして塔や自分自身を捉え、言葉によって何かをコントロールすることを諦めなあかった。だがその考え方では、世界や自分自身に対してコントロール可能か、不可能かといった二つの答えしかもたない。そうして、塔が破壊される未来に象徴されるように、

天と地が逆さになるのを見るまで

九段理江『東京都同情塔』、『文藝春秋』2024年3月号、p351

体を支えなくてはならない。というように、世界や自分がコントロール可能でないならば、生きられないということになってしまう。
 
 言葉は元よりいつも半分嘘で、半分伝わらず、半分独り言だ。私たちが人に対してそれ以上の影響力をもつことを、SNSの発達した現代で個人はどう考えるのか。言葉について言葉で書かれた小説であり、根拠を見つけてくればそのまま論文にもなりそうなこの芥川賞作品だが、「そのまま論文になりそう」なところもまた、この小説の構造自体もコントロール可能なものとして提示されていることを暗示している。実存で満たされず構造までもコントロール可能なものとしてみなす主人公に対してどの立ち位置を取って読むかで読み方が全く変わってくる作品だった。言葉の影響や言葉の在り方、ひいてはそこから見える現実の生き方について、『東京都同情塔』はいくつもの問いを投げかけている。
 

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