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(連載小説:第10話)小さな世界の片隅で。

前回巻末:歩がデイサービスの仕事を終え、病院へ向かうシーンから

午後の病棟でのリハビリまでの間は、お昼休憩だ。

病棟の職員食堂へ向かう為、歩はデイサービスを出た。
日はもう、頭上まで登っていた。
ひどく疲れた半日だった。

デイサービスから病棟へ、軽くうつむき、重い足を引きずりながら院内(敷地内)の通路を移動する歩の足元には、朝よりも短くなり、それでいて、なお情けない歩の影が再び、歩にピッタリと寄り添っているのであった。

第10話


(X-7日)
情けない足取りで、歩き、歩は職員食堂に着いた。
午前中は慌ただしく、時間が少し押したおかげで、食堂のピークは過ぎ、座席は、少し空いていた。

給茶機のボタンを押し、紙コップに緑茶を入れる。
外を歩き、少し冷えた歩の手を、紙コップ越しの緑茶がじんわりと暖めた。
コップを持って、空いている席に置き、座席を確保する。

注文をするため、奥に厨房があるカウンターに向かった。
厨房の中では、いつもの食堂のおじさん、おばさんが忙しそうに働いている。カウンターに立った歩を見つけ、食堂のおじさんが注文を取りに来てくれた。

”こんちは。今日は何にしますか?”
おじさんが歩に声をかける。

歩は、ポケットから、食事券を取り出し、注文する。
”え~と…。”

心の中の自分と、声をそろえてみる。

”ラーメン下さい。”
ラーメンを注文した。歩は近頃、手早く食べられ、そして胃に負担の来ない汁物ばかり頼むようになっていた。

”ラーメンね。”
”あ、そうそう、卵とか食べれる?”

”え~と、あ、はい。食べれますけど…。”

”了解。ちょっと待ってて。”

歩は、コップを置いた席に戻る。
席でしばらく待っていると、

”ラーメンの方~、出来ましたよ~。”
おじさんに呼ばれた。

カウンターにラーメンをとりに行くと、いつものラーメンの中に卵が1つ入っていた。

”余ったから、1つサービスしといたよ。”
おじさんは、軽く微笑んでいた。

”すみません。ありがとうございます…。”
歩も、軽く微笑んで、会釈した。

何だかちょっと嬉しかった。
体のどこかが温かくなった様な気がした。

歩は、世間から、どう見られているのかは分からない。
しかし、歩自身からにじみ出てしまっている、情けなさというか、不器用さというか、いい年をした幼さというか、そういった類、雰囲気のものが、歩自身からにじみ出てしまっている自覚はある。

歩にとっての、これは、見えない衣装の様なものだ。長年の紆余曲折を経て、何度も作り替えながら、結果的に、”今”は、良くも悪くも、この衣装を纏っている。自分では、結構気に入ってるつもりである。

この衣装を纏う事により、世の中の大多数の人には、多大なマイナスの印象を与えてしまうが、ある人には、親近感の様なものを抱かせるのだろうか、時折、こういう親切を受けさせてもらう事がある。

毎回、自分は、ありがたいと思って、受け取ってしまっているが、ちゃんと返せているのだろうか。ふとそう思った。

時間が押している。
湯気の向こうの、おじさんの暖かさが1つ入った、熱いラーメンを、味わいながら、しかし少し急いで、すすり、食べ終わった。

洗面所で歯を磨き、やや速足で、リハビリ室へ向かう。

午後の業務開始の、10分前にリハビリ室へ到着し、空いているパソコン(電子カルテ)で担当患者さんの状態をチェックする。熱発や、状態の急変等は無さそうだ。

今日入る、新患さん(うっ血性心不全の増悪、誤嚥性肺炎で搬送された方)の状態も、カルテ上の、現病歴、既往歴、血液データ、培養、心エコー、心電図等の結果、投薬状況、DRのカルテ記載等を見ながら、情報収集をし、状態をチェックする。

午後の業務開始時間となった。歩は、コロナ対策用の院内用のマスク(N95)と、アイガードを装着する。

院内用のマスク(N95)は、歩の口元に食い込み、グッと圧迫され、呼吸が苦しくなる。呼吸とともに、他の何かも圧迫されている様な気がした。

歩の所属病棟に着き、1人目の受け持ちの患者さん(石野さん)に入る。
脳梗塞で長年寝たきりの(ADL全介助レベル)患者さんだ。
今日で、入院32日目となる。

石野さんの情報をざっくり整理していくと、

入院前は、関連の老健に入所されていた方で、熱発にて、搬送。精査加療目的で入院となった方。精査の結果、炎症所見+。胸部レントゲン、CTにて、肺炎像なし。痰培にて原因菌-。尿培より、原因菌+。尿路感染症と診断された。同日より7日間、抗生剤投与。以降、熱発、炎症所見とも落ち着かれている。
リハビリは、入院3日目より介入している。
入院前のADLは全介助レベルであったが、介助により、日中、1時間程度の車いす乗車は行っていたと。

現在の状態は、
意識レベルは、反応に乏しく、声掛けに目を開ける程度。(著変なし)
長期の臥床により、麻痺側上下肢、手指は両下肢は屈曲位で、拘縮している。運動麻痺のグレードは、BRSにて、Ⅲレベルと推測されるが、精査は困難である。麻痺側腱反射は、+レベル。電子カルテ上の記載から、CT、MRI画像にて、中大脳動脈領域の多数箇所に陳旧性の梗塞巣あり。心エコー検査にて、軽度の心肥大の指摘あり、EF(左室駆出率)は、61%。心電図検査にて、非定型の不整脈が持続的に確認されている。血液検査にて、軽度の低アルブミン、腎機能の低下、軽度のうっ血の所見等が確認できる。目立った炎症所見はみられず。安静時の血圧は、収縮期血圧が90mmhg台とやや低く、SPO2(動脈血酸素飽和度)は、96%。投薬は、抗凝固薬使用しているが、それ以外(降圧剤や整脈剤、利尿剤等)による循環器に対してのコントロールはしていない。四肢末梢に軽度の冷感は認めるが、目立った浮腫は無し。チアノーゼなし。食事は、経口摂取困難な為、胃瘻を増設している。エネルギーは一日、朝、昼、晩で1500kcal。呼吸は浅く、口腔内は乾燥している、粘張型の痰がらみが多いが、自己での、排痰はできず、誤嚥のリスクあり。定期的な口腔ケア、喀痰吸引等の処置を行っている。排尿は、バルーンカテーテル挿入。排便はオムツ使用し、介助にて交換している。DRからの安静度は、車いす乗車までOKと。

最終的な目標としては、入院中の安静加療に伴う廃用を予防し、入院前の状態(ADL全介助の状態であるが、車椅子に毎日1時間位座っていられる状態)をリハビリによる介入で維持し、入所先である老健に帰る事が目標としている。

”こんにちは、石野さん。”

歩が声をかけると、石野さんは、目を開けた。
しかし、返答は無い。

”リハビリお願いしますね。”

もう一度声をかけ、バイタルチェック後、リハビリに入った。

石野さんの拘縮している箇所(関節等)をほぐしながら、リハビリを進めていく。拘縮した関節の動かしはじめは、すごく硬い。

硬い状態の関節を、表層の筋肉をマッサージしたり、ストレッチの手技を使って表層~深層の筋肉を伸ばしていく。または、他の刺激を使って、筋肉が緩むようアプローチしていく。

筋肉が、軽くほぐれた後で、筋肉の奥にある個々の関節を形状に合わせて、牽引をかけ(軽く引っ張る)関節腔を広げたり、運動方向に適した方向へ関節面を滑らせるモビライゼーション(他動的な関節運動)を行う。これらを行う事で、関節を構成する因子(関節自体や関節包、筋肉等)を個別的に動かし、その小さな単位の動きが拡がる事で、最終的に関節全体(構成体全部)としての可動域が拡大できるように調整していく。

リハビリ後、関節の可動域は一時的に拡がるものの、時間の経過とともに、ゆっくりと元の状態に戻っていく。しかし、1日1回以上、これを行うことで、長期で見た場合の拘縮の進行が予防できるとされている。

石野さんのように、寝たきりの患者さんは、拘縮のリスクに加えて、体動困難による、褥瘡発生のリスク。覚醒や呼吸も浅く、自己排痰できない為、自分の痰や唾液で誤嚥(ムセ)~肺炎をおこしてしまうリスクや、長期の臥床により、循環機能のそのものが低下してしまうリスク、姿勢変換に応じた循環動態を作り出せなくなり(反応が鈍くなってしまう:起立性低血圧等)、離床困難になってしまうリスク等がある。

これらのリスクをリハビリによる介入で低減させていく。

誤嚥に対しては、他動的に頭部~頸椎を動かし、頸部の可動性を高め、嚥下しやすいコンディショニングをすることで、誤嚥のリスクの一因子を低減させる。

循環機能に対しては、患者さんの状態、反応をチェック、経過を追いながら、患者さんにとって適正な負荷量で、ギャッジアップや端坐位、車いす座位等への姿勢変換、臥位以外の姿勢を一定時間以上作ることで、寝たきりの状態で慣れてしまった呼吸循環機能を賦活させる事ができる。
同時に抗重力位の姿勢をとる事で、姿勢保持筋群も賦活できる。
加えて、体に刺激が入ることで、覚醒も上がり、誤嚥の予防等に繋がる。

と、個人的に思う…。

石野さんに対しては、拘縮や誤嚥予防を目的とした、①他動的に関節を動かす可動域訓練と、呼吸循環機能の維持、全身調整運動を目的とした、②姿勢変換~保持訓練等を実施している。

病室内で、リハビリをしていると、後輩の鈴川が入ってきた。

”お疲れさまです。”

軽く歩に挨拶をし、隣の患者さん(米山さん)のリハビリに入った。
鈴川の患者さんも、歩の患者さんと同様の寝たきりの患者さんだ。

”米山さん、こんにちは、お願いします。”
床頭台の向こうで、鈴川が患者さんに声をかけているのが聞こえる。

しばらくすると、患者さんにリハビリを続けながら、鈴川が歩に声をかけた。

”歩さん、どうですか?最近。”

歩は、反射に身を任せながら、答える。
”どうもこうもないよ…。特に良くもなく、悪くもなくって感じだよ。”

”そうですか…。だったらいいですけど…。歩さん、なんか最近、疲れているように見えて…。”

”いや、僕はもう、歳だからさ。疲れるお年頃なんだよ。でも特別何かあるって訳じゃないよ。特に変わりない。大丈夫、いつも通りだよ。”

”いつも通り、しなびてるよ。”

歩は、1週間前と同じ言葉を返した。

”そうですか…。それだったらいいんですけど。”

”鈴川君の方は、どうだい?最近は?”

”自分はまぁ…、ぼちぼちですかね。あまり変わりないっすよ。”
”でも、歩さんの言う、歳っていうんですかね。30超えた辺りから、ちょっとずつ、体力がなくなるっていうんですか、疲れが抜けにくくなるのは実感ありますよ。”

”鈴川君は、まだ、30代前半でしょう?まだまだ、若いじゃない。体力なんて、まだ…”

”そういう問題じゃなくて、自分の昔と比べての話ですよ。自分じゃないと、分からないっていうか。歩さんも同じとこ通ってきたじゃないですか?”

”何というか、そういう感じです。”

”歩さんだって、世の50代の人から見れば、同じ事言われますよ。若いのにって。”

”たしかに。そういう問題じゃないね…。”

歩は、ふと、目の前の、石野さんに目を落とす。
石野さんは、昭和1桁生まれの、94歳。僕より54歳も歳が上だ。
石野さんの、くぐり抜けてきたであろう時代は、今の歩とは、比較にならない程の重みがある。
苦労を山程してきただろうな…。素直にそう思う。
今は、寝たきりになってしまっている、石野さんが、今の歩を見たら何と思うだろうか…。ふとそう思った。

”…でも、僕は、しなびてるから、しなびてる特権で…”

”…。”

”歩さん、何というか…、大丈夫そうですね。”

”何とかね…。”

鈴川との、暗黙の了承の元、2人とも、そこで会話を切り上げ、リハビリに専念する。

鈴川は中堅社員で、上司の原田さんからの信頼も厚い。最近は、原田さんの仕事を少しづつ任されているようで、原田さんとよく話をしている姿を見かける。そして家庭を持っている鈴川は、公私とも充実している様に見えた。

歩は、そこから、なんとなく、自分がはじめて、社内の出世で、後輩に置いていかれてしまうかもしれないという気がした。

歩は入社以来、定期的な勉強会への参加や、資格の取得等、地道に研鑽を積んできたが(自分ではそう思っているが)、出世に関しては、それ程気にしていなかった。というのも、歩が入社したころは、役職者自体が少なく、皆、平社員で居られた。それ自体にこだわる必要が無かったのだ。歩もそれを望んではいなかった。

ここ数年で、社員の数が増え、役職者の数も増えていった。基本的には、経験年数の長い者から役職が決まっていったが、次第にそれは、能力中心の評価へと変わっていった。

経験年数の短い人が、長い人を抜いて出世する。外部からの転職者で、入社後すぐ出世するケースも見られるようになった。

この”能力中心”が厄介だった。何の”能力”なのか、分からないのである。その裁量は、上司達が握っている。平社員から見ると、何が評価されて、何が評価されないのかが、全く見えないのだ。

歩の前職の営業の場合であれば、一目瞭然で、結果=売上(数字)であり。それが全てではないが、良くも悪くも、評価の指標となっていた。

だから、それに向かって、皆が必死で競争していた。

しかし、それが見えないのだ。経験を積む事が評価されるわけでもなく、知識や技術を持つことが評価されるわけでもない。逆に知識や技術を得る事で反感を買い、追い落とされるものも居た。

そして、それが掴めないまま、次第にその評価は、査定という形で、ボーナス等の給与にまで反映されるようになった。

そんな環境の変化の中で、入職後すぐにやめてしまう者。3~5年未満でやめてしまう者、歩と同世代の、長い期間勤めた末にやめてしまう者等、ここ数年で、この病院を後にしていく者が多数いた。

2巡目の歩は、ゆっくり考えてみた。
実は、この”評価”が何なのか、この時点で、うっすらは見えて(気づいて)いたのかもしれない。ただ、自分の中で消化できなかっただけなのかも。

それは、10数年前に、歩が、自分には、向いていないと悟り、以前の職場に辞表と共に置いてきたものの様な気がした。

置いてきたはずのものが、10数年後に姿や形を変え、歩の前にうっすらと現れ、また歩を絡めとりはじめているような気がした。

鈴川との関係は、今は変わらず、先輩、後輩のままではあるが、鈴川が出世すれば、立場が変わる。立場が変わる事は、患者さんや、利用者さん、他の職員等も分かるし、当然、伝わる事になる。

そのとき、鈴川より先輩である歩が、平社員のままでいる事は、周り人達に不信感を抱かせる事になりはしないか。

鈴川は、やりにくくなりはしないか。

何より、歩自身が、それを受け入れる事ができるか。

ここでも、追い詰められていた。

突き詰めて考えると、その状態を想像したとき、会社から、”あなたは、必要ないです。重荷ですよ。”と言われている様な気がしたのである。

そして、そう思うと同時に、

この病院に勤めてから。いや、それよりもっと前。

田舎の古びた本屋の片隅で、ガイドブックを手に取り、青臭い理想を抱いて、転職を決意した、10数年前のあの頃から、現在に至るまで、自分が考え、行ってきた事。苦労してきた事、研鑽してきた事、それまでに出会い、関わってくれた人達も含め、全てが、否定されたような気がした。

勤めてきた10数年が、全て無駄であったかの様に、人生の一部を失ってしまったかの様に思えたのである。

近々、人事考課があるようだ。思しき人は、そろそろ、声がかかる頃だろう。

そこで、鈴川に声がかかったとき、それが決まった瞬間に、歩の出世は今後無い事を暗示している様に思えた。

そんな事を(当時思っていた事を)思い返しながら、午後のリハビリを進めていった。

新患さん2人の評価も終わり、ひとまず、午後のリハビリは無事に終了した。

リハビリ室に戻り、空いているパソコンで記録を書き、残っている書類を、溜まらない様、一部を片付けていった。

全ての業務を終えて、時計を見ると、19時半だった。
歩の口元を圧迫していた、院内用マスク(N95)とアイガードを外し、医療廃棄のごみ箱に棄てた。普段のマスクに付け替えると、ほんの少し呼吸が楽になり、ホッとした。歩はゆっくり、ロッカールームへ向かう。

着替えを済ませ、入り口のICカードにタッチし、駐輪場へ向かった。
外はもう、夜の帳が降りていた。空気が少し肌寒く、遠くでまだ、ジーン、ジーンと、虫の鳴く声が聞こえていた。

周りの自転車が居なくなり、人気の無くなった少し寂しい駐輪場に、ポツンと一台、寂しげに、歩の自転車が残っていた。
その姿が、歩には、なぜだか少し愛おしかった。

自転車の鍵穴に、赤茶けた鍵を差し込む。朝と同様に2回、回すと”ガチャリ”と鍵が上がった。

輪留めから自転車の前輪を外し、自転車の向きを変えると、歩は帰路に向かって自転車をこぎ出した。

色んな思い、やり切れない思いを残しながら、歩の自転車は夜の道に消えていった。

北の空には、カシオペア座が白くひっそりと光っていた。

(次号へ続く)

※本日もお疲れ様でした。
社会の片隅から。徒歩より。

第9話。

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