(連載小説:第20話)小さな世界の片隅で。
<本日、ある宗教団体の施設に警察の家宅捜索が入りました。そして、その信者の一部が、混乱に乗じて、脱会を求め脱走している模様…、云々…。>
アナウンサーが淡々と伝えている。
不意に意識がテレビの方に向いた。
”ここらにも、そんな施設あったんだ…。”
ふと思った。
”っていうか、一週間前にも、こんなニュースあったっけ…?”
歩は、ゆっくりテレビの方に身体を向けた。
”なんだか、物騒だねぇ…。”
奥にいた母親が、なんとなく呟いた。
”…。”
”まぁ、いいや…。”
考えるのに疲れた歩は、そのまま風呂に入り、早めに寝る事にした。
自室のベッドで横になりながら、予測できない明日を思うと、不安と期待が混じり合う複雑な気持ちになった。
あの高校生の姿が目に浮かんだ。
そして、若い頃の自分の姿も浮かんだのだった。
(X-3日)
翌日、少し遅れて起きた歩は、急いで支度をし、自転車で会社に向かった。
一昨日の会議室での一件以降、予測不能な2回目の人生が始まった。
歩が自動車で海に突っ込んだのは、3日後だ。
3日後、歩がまだ生きていれば、過去の1週間の間の記憶は消え、その1週間分の記憶は、生き直した1週間の記憶に置き換えられ、4日目以降は、(生き直した事すら忘れて)、再び新しい毎日を生きていく事になる。
自転車をこぎながら、歩は振り返った。
思い出深い過去を振り返り、偶然出会った人達と話し、向き合った事で、自分の奥底に流れていた、本当に大事ににしていたものを、ぼんやりがではあるが掴めた様な気がする。話しながら、自分でも思ってもいない自分に出会えたりもした。
マンネリ化した昨日も、永遠に続くように感じられた白黒だった毎日も、世間体や起きてもいない未来に縛られず、自分の思いに正直に、行動を変えていくと、あれだけ重苦しい毎日(現実)が、あっけない位に(少しだけ)変わった。自分の受けとめ方も変わったような気がする。
そう思う一方で、変えた現実(行動)は、意識して維持していかなければ、どんな出発点から再スタートしても、再び元の生活へ戻ってしまうだろうとも感じていた。
残りは、3日間。自分に素直にいこう…。
4日後の自分に出会えるように…。
10分程自転車をこぐと、職場に着いた。駐輪場へ自転車を止める。
古い自転車の鍵をガチャリと回すと、今日も、1回で鍵が上がった。
”…。”
玄関でICカードをタッチし、手指消毒のペダルを踏み、消毒液を手に受ける。毎日の手指消毒であかぎれた手に、消毒液がしみて痛かった。
階段を上がり、リハビリ室の自動扉を開けると、正面のプラットホーム上で、朝の申し送りが始まっていた。
”すみません…。おはようございます…。”
歩は、遅れて顔をだす。
”おはよう。”
”おはようございます。”
”ざぁす。”
”つぁす…。”
職場の仲間達から返事が返ってきた。
”歩君、今日は新患さん、2名出てるから、1人お願い。”
上司の原田さんが歩に声をかけた。
”分かりました。”
”もう一人は…、じゃあ、山野君にお願いしようかな。”
”了解です。つぁす…。”
この申し送りの時、新患の申し送りと同時に、その他こまごまな事が振り分けられる。
原田さんの管理業務の一部は、最近は鈴川に任されつつあるようだ。以前は原田さんのこの引き継ぎ場面を見るたび、歩の心は少しざわついたが、退社を決意した現在では、心は穏やかでいられた。
”意外と、無責任なのかな…。僕は…。”
少し引いてみると、何て小さな所でストレスを感じていたのだろうと思った。
”自分にできることをやればいい…。そんな気持ちでいた。
”申し送りは以上だけど、他に何か連絡事項ある人いる?”
”…。”
”じゃあ、これで終わり。今日もよろしくお願いします。”
”お願いします。”
振り分けと、申し送りが終わり、皆それぞれの持ち場へ散っていった。
病棟へ向かうため、支度をしている山野に、歩は声をかけた。
”山野君、おはよう。今日は、どうだい?忙しい?”
”…ざいます。まぁ、そこそこっすかね。”
”僕もあと数日なんで。頑張りますよ。歩さんはどうっすか?”
”僕も、ぼちぼちだよ。そうかぁ、山野君、今月いっぱいまでだったもんね。”
”あと…僕もね…”
”いや…、何でもないや。”
歩は、言いかけて、やめた。
”何すか?気になるじゃないですか?”
”…。”
歩は、山野の方を振り返り、目に入ったもので、それとなく話題を変えた。
”いや…、しかし、それ(N95マスク)毎回毎回、きついよねぇ…。”
”息苦しいっすよねえ…”
”これで、階段上がるとか、マジで何の罰かわからんすよねぇ…。”
”本当だよ…。”
話をしながら、山野は、N95をつけ、その上から不織布のマスクをつけ、最後にアイガードを張り付けた。
”…。”
”山野君。そういえばさ、さっき、ミーティングの時に、”つぁす”って返事してたじゃん?
”あの”つぁす”っていうのはさぁ、Thasっていう事?”
歩は、そう言い、山野の方に目をやると、
山野の顔は、マスクとアイガードで覆われ、表情は分からなかったが、
言葉を宙に浮かせて、あえて漂わせている山野の様子に、歩は何かを了承してもらった安堵感を覚えた。
少し間をおいて、山野が答えた。
”いや、Thasっていうよりは、むしろ、ZASSって感じっすかね。”
”Thasじゃなくて、ZASS…?”
”はい。ZASSっす。”
”ZASS…?かぁ。”
”Thasじゃなくてね…。”
” ZASSねぇ…”
”ZASS?”
”ゼット・エー・エス・エスって事?
”…。”
”!”
山野のアイガードが急に白く曇った。
歩は満足だった。
”山野君、じゃあ、今日もよろしく…。”
山野はアイガードを曇らせ続け少し苦しそうだったが、歩は、そう言い残して、リハビリ室を出た。
院内の階段を降り、敷地を歩いて、併設のデイサービスへ向かう。
外は良く晴れ、風が涼しく、気持ちが良かった。
デイサービスへ向かう気持ちも、心なしかいつもより晴れていた。
デイサービスの自動ドアを通ると、奥のテーブルで、上司の杉山さんがいつものように、書き物をしていた。
”おはようございます。”
歩は、杉山さんに声をかける。
”おはよう。”
杉山さんは、書き物に目を落としたまま返事をした。
その声は相変わらず冷たかった。
”杉山さん、一昨日は面談、お手数かけました。ありがとうございました。”
”いいよ。別に…、俺は何にもしてないし…。”
”…。”
”また、後で、科長から電話あるかもだからさ、来たら対応してよ。”
”はい…。”
ぎこちなく、会話を終えた。
手持無沙汰になった歩は、フロアの準備に混じった。
テーブルに出されていた、グローブとルビスタを数枚手に取り、フロア内の、テーブルとイスを拭いていく。
”おはよう。”
スタッフの海野さんが、歩に近づき、声をかけた。
”おはようございます。”
”歩君、調子はどう?”
”ぼちぼちです…。”
”そう。”
”休みの間にちょっと、色々あって…。大分、気持ちが軽くなりました。”
”そう、良かったじゃない。いつも疲れ切った様な顔をしてるからさぁ、歩君は…。時々心配になるよ。”
”大丈夫です。何とかやってますんで…。ご心配おかけしてすみません…。”
”適当にさ、肩の力抜いて、楽しくやってればいいんだよ。ね。”
”ところでさ、今朝のニュース見た?”
”はい?”
”今朝のニュースだよ。宗教団体に警察が入って、(脱会したい)信者の人達が、施設から、ちりじりに逃げてるっていう、あの…。”
”あぁ…はい。昨日の夕方に、ちょっと見た(聞いた)かもしれないです。”
”なんか物騒っていうかさ、おっかいよねぇ…。”
”僕も、地元にそんな宗教団体があるなんて知らなくて、びっくりしました…。”
”あたしもびっくりしたよ…。”
”歩君、知ってる?ここの送迎車でも、たまに通るんだけどさ、市の北側の山の麓にさ、田んぼや畑が広がってる所があるでしょ。あの辺に教団の施設があるんだってさ。”
”勝どき山の方ですよね…。あんな所にあるんですか?”
”そう。見た目は普通の民家みたいだよ。”
”あの辺はさ、昔からの農家さんの大きな家が幾つもあるじゃない。随分前の話らしんだけどね。その中の一軒がさ、最後に住んでたおじいちゃんが施設に入ったのを機にね、売りに出されたみたいなの。”
”はぁ…。”
”そこを、教団の代表(教祖)の人が買い取ってね。敷地の中でさ、最初は一人で、お米や野菜を育てたり、鶏を飼ったりね。あとは…、水を引いて水車を作ったり、風車とか、太陽光のパネルなんかを設置して電気を作ったりしてね。空いた時間に本を書いたりなんかして。自給自足みたいな生活をしてたんだって。”
”はぁ…。何か、老後の生活って感じですねぇ…。”
”そこに、何故だか、ポツリポツリと通う人が出てきて、一緒に生活する共同体みたいのが出来てって、それから…どういう、いきさつか分からないけど、徐々に宗教団体に組織されていって、大きくなっていったんだって。”
”老後の生活から宗教団体って…。その代表(教祖)とか、信者さん達って、どういう人達なんですか?”
”代表(教祖)の人はね、元々は、東京の大手の会社に勤めてた普通の会社員の人なんだって。今はけっこうな歳なんだってさ。”
”なんかね、その代表(教祖)の人と一緒に生活をすると、体の不調がとれたり、不調がとれなくても、不調の原因を自分で気づけたり、見えたりする様になるんだって。”
”それが、クチコミで広がって、(最初は)心や体に不調を持つ人、健康を意識する人達が集まっていったみたいよ。”
”元々は、そういう健康サークルみたいな集団だからさ、信者さんも、あたしらがイメージする、ザ・宗教って感じじゃないんだって。見た目とか雰囲気は、地味だけど、本当に普通らしくてね。一般の人と全然見わけがつかないんだってさ。”
”はぁ…。普通ですかぁ…。じゃあ、その逃げてる信者の人とかと、どっかでばったり会ったとしても、分からないですよねぇ…。”
”そうだね…。”
”…。”
”ただ、一部の熱心な人はね、教団の印(マーク)があるらしくてさ、それをね、肌身離さず身に着けているんだって。”
”あの、海野さん…?随分詳しいんですね…。”
”別にどうってわけじゃないけど、私らみたいな、おばさんちはさ、こういう、うわさ話みたいの好きだもんでさ。”
”ニュースで見たあとに、スマホで何回も調べちゃったよ…。”
”気が付いたら、1時間くらい調べてたっけ。”
”はぁ…。”
”海野さん、僕、昨日、そのニュース、あんま集中して聞いてなくて…。ちなみに、その宗教団体は、何で警察の家宅捜索をうけてるんですか?”
”さぁ?”
”…。”
”さぁ?って事はないでしょう?”
”何を捜索されてるんです?”
”あたしも気になって調べてみたんだけど、それ以上は分からなかったよ。”
”何かあるんだろうけど、まだ伏せられてるのかもね。”
”はぁ…。”
”何か進展があったら、またニュースでやるかもしれないね。”
”はぁ…。”
”…。”
海野さんと、まとまりのない会話をしながら、時間を過ごした。
歩は、ふと、気になった事を聞いてみた。
”海野さん、あの…、先週もこんなニュースありましたっけ?”
”今の話?先週?いや、昨日のニュースだよ。”
”先週…。いや、先週じゃなくて、あの…1回目の…、”
”…。”
言いかけて歩は気づいた。
”ごめんなさい、何でもないです…。”
”何か変なこと言うねぇ…、本当に大丈夫?”
”大丈夫です…、ありがとうございます…。”
歩は、整理できなくなってきていた。一昨日、会議室で会社を辞める決断をした所から、歩の現実は少しづつ変わり始め、その影響は、何故か歩と直接関係のない範囲にまで及び始めていた。
歩が知りうる未来が、ぐにゃぐにゃと見た事のない形に変わり始めている。
もう、同じ過去には戻れない。
”…。”
フロアの準備が概ね整った所で、送迎の時間になった。
歩は送迎表を確認しに、テーブルへ向かう。
テーブル上の送迎表は、きついコースで組まれていたが、今日は、杉山さんの直前の手入れはなかった。
”…。”
スタッフルーム内にある、送迎用の携帯電話と車のキーを持って、駐車場へ向かう。
車のドアを開け、エンジンをかけると、スピーカーから、いつものラジオDJの元気な声が立ち上がってきた。
”おはようございます。DJの小玉です。10月〇日、〇曜日、「DJ小玉のエブリモーニング」本日もよろしくお願いします。”
(BGM)
”時刻は9時20分を回りました。エブリモーニング、トラフィック&ウェザー、インフォメーションです。まずは、交通情報を日本道路交通情報センターの松永さん、お願いします。”
”はい。高速道路の状況です…”
歩は、送迎の電話をかける為、ラジオのボリュームを一度絞った。
電話をかけ終わり、再びボリュームを上げると、番組が始まっていた。
”…聞きの皆さん、昨日は、取り乱して、お聞き苦しい放送をお届けしてしまい、大変失礼しました。”
”放送後、ディレクターと一緒に、各方面の方々の所へ精一杯のお詫びさせて頂きましてね。その時に、沢山の大変ありがたいご指摘、アドバイスをいただきました。関係各位の皆々様、その節は、どうもありがとうございました。そして、今一度。大変申し訳ございませんでした。”
”本日は、いつも通りの素敵な台本にそって進行させて頂きます。皆様、どうぞご安心して、お楽しみください。”
”ハハハ…。”
後ろで、スタッフの笑い声が聞こえた。
歩はアクセルペダルを踏み、車を発進させた。送迎車は、ゆっくりとセンターの駐車場を出る。大きな幹線道路に入り、その後、住宅街を回りながら、5人の利用者さんを乗せて、10時前に、デイサービスセンターの近くまで戻ってきた。
送迎の途中、この時間帯の住宅街で、普段見たことの無い、30代位の若い男性を見かけた。すらっとしたその男性は、細身のジーンズに黒いシャツを着ていた。歩が目を向けると、足早にその場を去っていった。
”…。”
到着前の車内は、利用者さん達の話声とラジオの音声が混じり賑わっていた。ラジオからは、小玉さんの元気な声が続いている。
歩は運転を続けながら、ラジオの方に耳を傾けた。
”いや〜そうそう。ハハハ…。“
”はい、じゃあここでね、お便りを一つ読みたいと思います。市内在住、50代、主婦の方からです。”
”小玉さん、おはようございます。初めてお便りさせていただきます。いきなりですが、私には、訳があって数十年前に家を出た息子がいます。その息子が、何やら今、大きな決断に迫られている様です。何か、励ましの言葉をお願いしますとの事です。”
”大きな決断ですかぁ。そうですねぇ…。”
”…。”
”お母さんですかね…?お母さん、じゃあ、僕から思った事を一つ。いいですか?”
”大丈夫です。”
”息子さんを信じてやって下さい。”
”お母さん。今、お便りをもらってね。自分の人生に大きな決断があったのかどうかすら、パッと思いつかない、僕ですが。昨日は調子に乗って喋りすぎ、散々に怒られてしまった、こんな僕ですが。今こうして、マイクの前に座って、喋って、何とか楽しく暮らして生きてます。”
”大丈夫です。何とかなります。”
”どんな決断をしても、どんな結果になっても、いいじゃないですか。ねぇ。それがその時の自分のベストなんです。”
”決断とか結果、そのものよりね。その後をちゃんと自分で引き受けて、何とかしていく事。何とか出来なくても、その場から逃げないでいる事の方が、僕は、大事な事だと思います。”
”あなたの息子さんです。大丈夫です。”
”こんな所でどうでしょうか?”
”それでは、曲をお聞きいただきましょう…”
(曲)
送迎車がセンターに着いた。
歩は、玄関の前に車を止め、ラジオのボリュームを絞った。
運転席から降り、スライドドアを開け、利用者さんのベルトを外す。降車を手伝いながら、出迎えのスタッフに引き継いだ。
”おはよう。今日は調子どう?”
センターから出てきた海野さんは、利用者さんに声をかけ、手を引きながら、中へ誘導していく。
歩も誘導を手伝いながら、空いている運転手さんに送迎車のキーを渡し、車を駐車場に回してもらうよう、お願いする。
誘導が終わると、スタッフルーム横の送迎表に到着時刻を書き入れ、洗面台に向かった。
その時、奥のリハビリルームで、すでにリハビリに入っている杉山さんと目があった。
”歩君、今日も(利用者さん)多いから、急いでよ。”
杉山さんが声をかけた。
”はい。すぐそっち、行きます…。”
歩は、手洗い〜手指消毒を済ますと、急いで奥へ向かった。
杉山さんが意識したかどうかは分からないが、
その聴きなじみのあるやりとりは、歩が入職した時と同じ声掛けだった。
遠くから海野さんの視線を感じた。
振り返ると、お茶の配膳をしていた海野さんが、こっちを見て軽く微笑んでいた。歩と目があうと、そのまま小さく頷いた。
歩も小さく頷き、そのままリハビリへ入った。
起きた出来事を消化する時間もなく、慌ただしく、午前が終わっていった。
(次号へ続く)
※本日もお疲れ様でした。
社会の片隅から、徒歩より。
第19話。
第1話はこちらから。
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