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学ばざれば牆に面す

二月十五日

十二時五分起床。大きな雪片の雪が舞っている。今シーズンはこれで第何次積雪になるんだ。ライブラリーが整理期間でこんしゅうずっと休みだから、ひさかたぶりに市内の古書店にでも出歩こうかなと薄ぼんやり考えていたのに、これではとても行けそうにない。僕は他人に対して自分の事をよく「出不精」と規定してみせるけど、よほどの悪天候でない限りまいにち一時間以上は散歩しないと気が済まない質だから、客観的にはそうとうの「出忠実(でまめ)」である。為事上、起きている時間の大半を読むこと書くこと費やしている人間は、動くことに飢えているのだ。それにしても、このまま降り積もって買い物さえ行けなくなるのは困る。冷蔵庫にはもうベーコンとマヨネーズと玉葱たっぷりポン酢しか入ってない。どうしてこう生活にはハードルが尽きないのかね。
散歩を逍遥と言い換えることは、いくつかの点で、好ましい。まずなにより語感に雅味がある。「逍遥自在」といえば世俗を逃れて自由に遊ぶことだ。そういえば坪内逍遥という文士もいた。ともあれ散歩という語はもうありふれ過ぎていて、そこからは平俗陳腐な含意しか汲み取れない。たしょう<西洋哲学史>を知っている人なら、逍遥と聞くと、ペリパトス派(逍遥学派)のことを連想しないではいられないだろう。この語はほんらいプラトンが歩きながら講義したという「伝説」に由来していて、彼の開いたアカデメイア出身のアリストテレスらを指す言葉だったのだけど、のちアリストテレスのリュケイオン校に学んだ弟子の総称となった(周知の通り、アカデメイアは「アカデミズム」や「アカデミー」という語の起源である。これはプラトンが紀元前三八五年ごろにアテネ北西郊外に作った学校で、その名は、その土地が半神(英雄神)アカデモスの神域であったことに由来している)。じっさいほんとうに彼らが回廊(ペリパトス)を逍遥しながら講義や議論をしていたのかどうかはともかく、それより私はそんな求道的で優雅な「学問コミュニティ」に対し、以前からずいぶん強い憧れを抱いている。内田樹が、苅谷剛彦『学力と階層』(朝日新聞出版)の解説のなかで、いずれ私塾を作りたいと唐突な願望を表明していたが(実際に彼は「凱風館」というのを作った)、私にもそうした願望がつねに有り余っているのだ。プラトンの時代から現在に至るまで、世の中には、「智を伝授すること」自体に喜びを感じられるような人間が、かならず存在している。だがこんにち、アカデメイアのような<非営利>の学校は地を掃って久しい。だが、「俗塵を離れて」哲学研究に没頭したり、対話を深めたり出来る場所が、人間には<必要>なのだ。
学校(school)の語源が「閑暇、余暇」などを意味するギリシア語「スコレー(skhole)」にあるということを、ここで今更ながら繰り返さねばならない。「忙しくて学問や読書などしている暇もない」などということはおよそ「奴隷(労働機械)」にこそふさわしい言い草なのであり、そんな愚昧な弁解を通して彼彼女らはますます統治上(あるいは世論誘導上)都合のいい家畜性を身に付けていくのである。「少子化対策」などという「生権力」丸出しの行政語法に大部分の人間が慣れきってしまっているのが、その証拠だ。いっけん自由意思で発しているつもりの「政治的意見」も、「当事者視点」ではなく「統治者視点」であることが多い。食うや食わずやの暮らしをしている貧困プレカリアートさえしばしば「国家財政」のことなどを気にしているからね。「福祉の世話になるべきではない」「自立して生きなければならない」なんていう「社会規範(social norm)」を骨の髄まで内面化させている。<自由智>の領域に自分を開くためにはまず、膨張し続けているその「超自我」を<解体>させることから始めないといけない。なのに、<既存の体制的事実>に虐げられている人ほど、この<解体>に積極的でないのが通例だ。無思考無批判無内省がすっかり習い性となっているそんな人々と長く一緒にいると気が滅入ってくる。他生物を食わないと生きられないこと、つまり「不自由でしかも暴力的な生物個体である」ということに些かの屈辱も感じることの出来ない、そんな<愚鈍さ>を私はどう受け止めればいいのだろう。奴隷になまじ学問などさせたら思索などを始めいずれ反乱を起こすかも知れないとして、奴隷の識字能力習得が禁止されていた、そんな時代であればそれも「仕方がない」ことだ。だが現代の日本ではいちおう誰もが文字を読むことを教えられている。誰もが知にアクセスできる「権利」を与えられている。なのにどうしてかくも多く人々がその「権利」をみすみす放棄してしまうのだろうか。なぜこの世にはいつも一定の「知的格差」が存在しているのだろうか。つまり、「自分」の置かれている「不快な現状」を時代的・社会的等の<俯瞰的視座>で眺められる人間と、そうでない人間とに、分かれてしまうのだろうか。
大谷純『摂食障害病棟』(作品社)を読む。著者は医師。通俗小説と対話篇が綯い交ぜになっている、ジャンル横断的な読み物。たぶんそれほど売れていない。奇妙な本という意味で「奇書」というべきか。過食症や拒食症で苦しむ女性たちをめぐる小説的展開はさして印象に残っていないが、大谷と小谷とあと一人名前を忘れたけど(リョウだったか)、一癖も二癖もあるその三人の男たちによる思弁あるいはダイアローグの部分は刺激と示唆に富んでいた。こういう浮世離れした七面倒臭い議論が好きでな人でないと、通して読めないかも知れない。シャーマニズムだとか多重人格だとかイスラームだとかリビドーだとかをめぐる抽象的議論が気が付けば始まっているから。(私が敬遠して止まない)ルドルフ・シュタイナーの「オカルト生理学」についても言及がある。作中には「地中海クラブ」という変な同好会が出て来るが、この名はフランスの歴史学者フェルナン・ブローデルの主著に因んでいる。いっぱんに「アナール学派の巨匠」とされている人だ。「アナール学派」いう呼び名は、リュシアン・フェーブルとマルク・ブロックが一九二九年に刊行した研究誌「社会経済史年報」Annales d'histoire économique et socialeに由来している。超絶がっつり言うなら、そこに集まった人びとは、従来の「事件史」を中心とした歴史記述に対し、生活や民俗を含めたもっと大きな「生きた歴史」の記述を志した。その垣根を越えた学問的影響の広さを考えるなら、それは学派というより、一つの運動といっていい。中世研究で著名なジャック・ル・ゴフも、『〈子供〉の誕生』で大きな反響を呼んだフィリップス・アリエスも、私の好きなアラン・コルバンも、この運動の潮流から出てきた。日本でこの「アナール学派」系の歴史書を積極的に出版しているのは、藤原書店である。ブローデルの浩瀚な『地中海』もコルバンの『身体の歴史』もここから出版されている。私の敬愛する出版社の一つである。このような出版社こそ末永く存続して欲しいと、陰ながら願わずにはいられません。

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