不登校支援という危うさ③

神戸市の不登校支援に関するメディアの報道で少し気になるところがあるので、これについても少々思うところを記しておきたい。「居場所」という書き方が気になるのだ。

これは行政がそう位置付けているからその態度をそのまま「居場所」と言っているのか、メディアがそう思うから「居場所」と書いているのか、筆者の意図するところは不明、という前提で話をさせてもらうが、私はこの「居場所」という言葉にものすごく否定的な印象を受ける。ただ、この手の書き方は近頃多くの既存メディアで散見される書き方だ。

最近よくある議論に「内と外」という議論があるが、行政にしろメディアにしろ、学校内に「内と外」という図式を持ち込んでいることに気が付いているのだろうか。この記事の①からしている話だが、公立学校は教師の怠慢を省みず官僚主義的傲慢さに基づき通常の学校教育を「内」とみなしているため、必然、その「内」に当てはまらないものを「外」として排除する図式が出来上がっている。不登校問題の本質を考えないよう敢えて盲目になろうとするから必然そうなる。これは必然的権威主義で、必然的哀れとも言える。

ヘーゲル的な理想主義は(そもそも有意の共同体構想は)、結局のところ全体主義へと行き着きつく。これは歴史が証明していることでもあるが、ハイエクはこれについて分りやすく論じており、彼の著書は共産圏で最も読まれる自由主義に関する経済書となった。戦後日本の教育システムは戦前の反省から教育委員会制度の下で運営されてきたが、これは共産主義的な思考に基づいており、結果必然として今あるような全体主義へと至った。これを私は優生思想まるだしのナチズムだと言っているのだ。

戦前から戦後にかけて、初期のフランクフルト学派など新左翼は当然予期できるこのような必然的停滞を克服しようとしてきたわけだが、日本の左翼は詰め込み勉強しかしてない自称インテリばかりで将来を見通すことが出来ず現在のような惨状をもたらした。学校教育が完全に道具化され科学主義への供物でしかなくなっている今日、学校教育が結局何をやりたいのかさっぱりわからない状況。優生思想まるだしのナチズムが大手を振って闊歩しているだけ。科学がもたらしたものは結局のところ原発事故やコロナワクチン大災害など人類を破滅に追い込みかねないような惨劇でしかなかったわけだが、行政や既存メディアは自らストップをかけられない自動機械となって今なお児童にまでコロナワクチンを打て打てやってるのだから本当にお笑い草である。児童にまで毒を打たせておいて何が不登校支援だ。詭弁もいいところ。

抽象的な話をして読者の皆さんを煙に巻こうとしているのではない。昨今の全体主義への流れのそもそもの原因が学校教育にあると言っているのだ。で、文句ばかり言って行政やメディアを卑しめるのが目的だと思われたくないので、「内と外」の議論に戻って私なりの改善策を提示するなら、私は通常のコースとして二つに分けたらいいと思う。バカみたいに詰め込み勉強して道具化されたロボットになりたい人、それと、人間として生きたい人。この二つのコースに分けたらどうかと思う。これで対等なので「内と外」ではなくなる。学校にいるだけではわからないだろうが、今はあらゆる面から日本の教育システムは抜本的な改革が求められている。そのことに多くの人が気が付いていない。ただ、私は今からではもう遅いと思う。ロボットになりたい人が多すぎるから。ロボットだらけの社会が民主主義をやってるわけで、当然多くの人は今を疑えない。従って私が何かを提案しても当然全く意味がない。

以上


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