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【小説】白になりたい

 朝目を覚ました時、視界に白い天井しか見えないと、自分が誰だったのか思い出せない。それは「寝ぼけて頭がぼんやりしている」ということ以上のものがある。天日干しされた布団の匂いを嗅いで、生温い風に揺れるカーテンを見て、床に散在する服や本を踏みつけた感触を感じて、ねばねばした少し苦い唾液を味わって、枕元で常に回り続ける空気清浄機のファンの音に嫌気が差して、ようやく僕の知覚は呼び覚まされる。記憶は、あるいは人間自身は、世界の粒子の中へ溶けて、自分自身を知覚するものだ。だから何もない部屋に閉じこもっていると、人は自我を失ってしまう。

 そんな知覚を駆使しても、完全に同一性を呼び起こすことはできない。その後、「会社に遅刻してしまっては評価が落ちる」と理解しながらも、昨日のワインの倦怠感が胸の奥から込み上げていくる。過去を後悔し、「今日から意識から溢れるワインは決して啜らない」と左肩に誓った。一階に降り、2Lのペットボトルを咥え、ミネラルウォーターを口に含み、そのまま肌寒い風が吹き込んでくる換気扇の下でタバコを1本吸って、今日の予定を考え出す。ここでようやく僕は自身を世界から救い出す。

 このように僕が世界で遭難してしまったのは全て夢のせいなのだ。夢は自由とナルシシズムを取り上げ、強制的に仮想的な光景の中へ僕を幽閉する。美しい夕暮れの空が、意識を吸い取って僕を放心させるように。すなわち、目を開いてからの30分間は、自身の帰宅を待っている時間なのだ。

 ただ、誰しも稀に朝帰りをするように、太陽がどれだけ高く昇っても、月がその顔全体を現しても、意識が帰ってこない時がある。そんな時まるで全てのものに対して反応するパブロフの犬になったかのように、あるいはもはや誰も必要としない自動人形のように、僕は淡白に世界に挨拶することしかできない。だが、意識も一晩で遠くに行けるわけもなく、ましてや海外旅行に行くことは不可能であり、外界をきちんと見渡せば案外近くで呑気に寝ているものだ。そして、意識がついに帰ってきた時、僕はその一夜の旅話を聞いてあげるんだ。

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