見出し画像

【エッセイ】たまらなく愛おしい死

 死への憧れを持つことは、不幸な人間の特権ではない。死は実際、これまで愛したどの女性よりも美しく、優しく、魅惑的なはずである。
 死は無をもたらすが、何も聞こえず、何も見えない完全さは、全ての実在から刺激と緊張を奪い、自然と一体となることを許容する。また死において、思考はもはや不要で、脳内の喧騒は、深夜の住宅街の静けさを帯びる。つまり、無とは即ち忘却の許可であり、忘却は人間にとって唯一の不可能性そのものであり、人が天国としてイメージするものに根本的に近しい。
 たしかに一般的に死によって失うものも多い。身体や精神、財産、家族や友人など。ただそれらは本当にこれまで所有していた訳ではない。それらを所有していたとすれば、それらを今すぐ自身の決断によって譲渡することも破棄することもできると言っているようで、まるでそれらが無かったとしても、自身は別のどこかにいるかのような物言いである。つまり生は一切所有することなどできず、死によって失うこともできないのだ。純粋な死によって唯一失うものがあるとすれば、それはむしろ死に他ならない。
 ただ、通常死は禁じられ、死を望むことはタブーとされ、死に対して恐怖することを強いられている。だが、実はこの恐怖は死に至るまでの恐怖や痛みであり、それは社会によって巧妙に隠されている。だが実際死してなお、恐怖や痛みは存在さえできない。すなわち死の禁忌とは、人のいないサークルが退会者を引き止めようとするのと同様に、社会にとっての損害に対する防止策にすぎない。
 だが死は構造的に未知であるから、多くの人は死への恐怖を拭いきれない。死は全人類、全生物全てが唯一共通して体験するものであるが、唯一語り継げないものでもある。だから概念的なものであり、想像上のものであり、最も悪用される。普遍的で万能な脅し文句として利用されるのである。
 ただし、事人間において、この脅迫は度々失敗する。未知は好奇心に、恐怖は背徳に、痛みは興奮へと置き換えられる。社会による強制はもはやシスターが教会から禁欲を命じられたかのように、根源的には抑えられない衝動の解放と隠蔽の暴露を夢見ている。だから皮肉なことに、社会や宗教が人から死を遠ざけるほどに、人は死を愛おしく思い、恋焦がれ、死に溺れていくのだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?