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【手紙】愛に呪われた唇

 歌舞伎町で彼女を振り切った時、僕の胸には悲しそうな光が注いだ。おそらく獲物を物にできなかったっということもあるに違いない。ただ、これはそれには尽きず、自分の娘の粗相を謝る父親のように、自分の無力さと、自分には変えられないものがある、という当たり前のことを思い出したのだ。彼女への愛の存在は決して否定できないが、その愛の中には、自分の期待する未来と、単純な欲情が混ざっており、娘への向けられないような感情を彼女の下心で帳消しにしようとしていた。この相反する状況は奇妙であり、その原因は過去の自分への恥とは知りながらも、過去を捨てることはできないというジレンマを抱えていた。
 ただ、僕を救うのは、彼女との成就ではなく、全く関わらないか、僕が彼女を欲情の吐き口にするように利用するか、もしくはうまく付き合っていくかしかない。なぜ彼女との成就は解決にならないのかといえば、僕の望みとはあまりにもかけ離れているからだ。というのも、僕は尊敬に値する人をこれまで愛してきたからであり、彼女の中に僕が尊敬することは正直ないのだ。だから欲情なのだ。だから吐口なのだ。人間性に興味がなければ、あとは肉体しか残らない。そして人間性に興味を沸かせるのは、人間性それ自身だということをおそらく彼女は知らない。いや、彼女はこのことを知っているからこそ悩み、よくわからない観念に囚われているのかもしれないが。しかし、やはり分かっていないのが、この観念はいつだって自身に巻きつき、それを剥がすには痛みを伴うと言う点だ。そして彼女は、巻きついた観念を隠し、目を覆って歩き過ぎたのだ。
 だからだろうか。僕はもうしばらく彼女の名前すら呼んでいない。彼女の名前を呼ぼうとしても名前を呼ぶ直前で、僕の口は彼女の名前だけ発音できない呪いがかけられたようだ。そして呪源は何かといえば、やはり愛なのだ。僕の唇はどうしても愛に呪われている。おそらく、僕の理性が強すぎたのだろうか、愛は理性を向けられると人を呪うのだ。
僕はその歩き過ぎ去った道のりを見て、モーツァルトのレクイエムを頭の中で演奏し、その音楽に涙腺を揺らされた。

2020年12月23日

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