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山下清、天衣無縫の大将 その1
※これは2022年に書いたもので、記事中の情報も当時のものです。
●山下清と北迫正治(しょうじ)
今春、垂水市立図書館では、「山下清と北迫正治の世界」という展示会が開かれていた。
ご存じ山下清(1922-1971)は、1956(昭和31)年、当時大学生だった川畑弘見さんという方に連れられて垂水に来ており、3週間ほど市内の民家に逗留しながら、風景や人物を描いている。
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元垂水出身の北迫正治(1948-2011)さんは、大学のラグビーの試合中、首の骨を損傷し、肩から下が動かなくなってしまった。一時期は自暴自棄に陥ったというが、口に絵筆を加えて、数多くの絵と詩を遺された。
会場には北迫正治さんの詩画集『花と詩と』も置いてあって、その本の中には事故の様子のつぶさな記録もあるが、これを読んでいると、臨場感の伝わる詳細な筆致に、当時のご本人やご家族、ご友人のあまりに深い悲しみが思われて、涙が幾筋も流れてきた。
しかし、北迫さんは、周囲のお支えや詩画を始められたことを経て、「今では、生きてきてよかった、生まれてきてよかったと心から思える日々を過ごしています」と述懐されている。
そんな垂水ゆかりの二人の芸術家が、時処諸縁(じしょしょえん)を超えて邂逅(かいこう)を果たしているのが、此度の展示会であった。
本文では、この展示会に関する所感を、仏教の見地から考察してみたい。
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●あるがままの美「自然(じねん)」
さて、この山下清と北迫正治の両氏をひもづけるキーワードを、私は「あるがまま」という語に感じるのである。
というのも、
展示してあった山下清について書かれた雑誌の表紙に「あるがままの自分に正直に生きよ」とあり、また、北迫正治自作の詩に「風に揺れている 一日だけの花 吹く風に 全身を任せている 優しい色をしている 流れに身を任せ あるがままに生きてみたい」というものがある。
山下清と北迫正治、その審美眼の奥底には、余計な粉飾を加えず、また、作意的な自己都合を挟まずに、まず対象をあるがままに是認するという、美術家としてのスタンスがあったのかもしれない。
つまり、業突張り(エゴイスティック)な自己表現の創作活動とは違って、力の抜けた、自然体の筆運びが、山下清の画には素朴さとして、北迫正治の画にはみずみずしさとして、とても爽やかに顕れ出ているように感じるのだ。
この「あるがまま」という語は、仏教語では「自然法爾(じねんほうに)」という言葉に言い換えられる。
「自然法爾」とは、或る辞典によると、「なんら人為的な力を加えることなく、おのずからの姿であること。また、その姿のまま救われることから、仏教で、自力をすてて如来の絶対他力につつまれ、まかせきった境界をいう。」と説明されている。
また、1333年に編纂された『末燈鈔(まっとうしょう)』という親鸞の消息(手紙)集には、「自然法爾事。自然といふは、自はをのづからといふ、行者のはからひにあらず、然といふはしからしむといふことばなり。しからしむといふは行者のはからひにあらず」と解説され、同じく親鸞作の『正像末和讃(しょうぞうまつわさん)』には「法爾といふは如来の御ちかひなるがゆへにしからしむるを法爾といふ」とある。
仏教に造詣の深かった赤塚不二夫の言葉でいうなら「これでいいのだ‼」である。
赤塚不二夫の代表作『天才バカボン』。バカボンとは、古代インド語のサンスクリット語の「Bhagavan(バガヴァーン)」。漢字では「婆伽梵」「薄伽梵」と書く。「覚れる者」という意味で、「仏陀(ぶっだ)」と同義語である。
これでいいのだ。あるがまま、存在自体が掛け値ない美なのだ。
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