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【仏教】親鸞聖人の「聖人」に関して〜推し活の極意〜

プロフィールにも書いてますが、実は私はお坊さんなので、たまに仏教の話します。


真宗の宗祖(開祖)、親鸞は、よく「親鸞聖人(しんらんしょうにん)」と呼ばれています。


これはnoteでの大変興味深い発見なのですが、noteのタグで「親鸞」と検索してみると、やはりただの「親鸞」より「親鸞聖人」のほうが数が多かったです。(2022年12月27日現在)
タグは出来るだけ簡潔なものにしたほうがヒット数を稼げそうなものですが、「親鸞聖人」のほうが多いのはちょっと驚きました。それだけ、「聖人」までつけて呼ぶのが浸透していることなのでしょう。

敬いの気持ちを表して、「〜さん」「〜様」でも、或いは仏教の偉いお坊さんによくある「〜大師」とか「〜尊者」と呼んでも良さそうですが、親鸞はかなりの割合で「親鸞聖人」と呼ばれています。

今回はそのことに関して、自分の思いを書き連ねます。何か学術的な知見というわけではありません。あくまで私の所感です。


私は「親鸞聖人」って単語は、ただの個人名じゃなく、ある種の尊号であり、愛称だとも思ってます。

例として、西郷隆盛の「隆盛」という名は実際には彼のお父さんの名前であることは有名ですが、幼名や、奄美潜居時の菊池源吾という名前等、他いくつかの別名があります。

それぞれの名乗りにバックグラウンドがあるので、西郷の一生涯を貫きつつ、氏を敬慕する今来の人々(仏教的に言えば西郷のサンガ(和合衆))の文化もこもった呼び方として、氏の雅号・神号に由来する「西郷南洲」「南洲翁」や、故郷鹿児島での呼び名が国民からの呼び名となった、「せごどん」という呼び方があります。これらの名前は、単に「西郷隆盛」と呼ぶよりも、氏への尊崇の念に加え、どこか親近感を感じさせる呼び方です。

日本史の授業なんかでは人物名を呼び捨てるのが当たり前ですが、思いある人にとっては、とても呼び捨てすることは出来ません。
教科書やテレビの中の平面化された人物には、まさに奥行きを感じることが難しいですが、「南洲翁」とか「せごどん」と呼ぶことで、その人は、西郷隆盛を、遠い昔にいたただの一人物から、人情にあつく、郷土を愛し、国民を愛した、人間味あふれる自分なりの西郷像・西郷観を、今ここに、立体的に躍動的に、再構築しているのでしょう。


親鸞(別名として綽空・善信etc.)のことを、「親鸞聖人」と、恰もこれで元から一語のように呼ぶのは、この語がただの人名のみを表しているに留まらず、彼の生涯一貫の同一性を押さえながら、彼を尊崇するサンガにおける、親鸞のカリスマ化(=神格化・権現としての親鸞)と、親鸞への親しみ(=わが親友・同朋としての親鸞)があるためです。

カリスマ化と親しみは一見、相反する反応のように思えますが、同居する気持ちでしょう。たとえばアイドルの誰かを好きになるにつれ、相手の居場所が、高まりつつも近しくなる感覚です。

それが800年という長いスケールを経た例が「親鸞聖人」という成語。
「親鸞」と「聖人」が即一である所以は、遥かな歴史の中で醸成されてきた、真宗門徒の文化があるためです。

あと、時々、真宗は宗祖を「聖人」呼びして不遜だとか、親鸞は「愚者」を立場としたのにそれを「聖人」と呼んでは、宗祖の意思に悖っているという指摘があります。確かに説得力のある指摘ですが、それは親鸞本人のことはカヴァー出来てますが、親鸞の受取手である、長代無数の門徒の文化に対する視座が抜け落ちてるのではないでしょうか。

また、別の点から反駁すれば、親鸞聖人の「聖」の字は、「聖(セイント)」の意味ではなく、「聖(ひじり)」の意味であり、彼が深くリスペクトした播磨賀古のひじり、教信沙弥に由来するものだという言い方も出来ます。

さて、話が脱線しましたが、以上のことから私は、「親鸞聖人」という語に、ただ人間一人の呼称を超えた、親鸞を囲繞する無量の人影を感じるし、教団の宏闊な裾野を見つつ、そこに免れ得ない、親鸞が肉身としての親鸞から、観念的存在としての親鸞聖人に変容していく様を想像させられるわけです。


ちなみに、親鸞に限らず、誰に対しても「カリスマ化」や「親しみ」が過ぎたら歪な関係性になります。

「カリスマ化」を仏教では「知識帰命」「善知識恃怙秘事」「知識だのみ」等と言います。これは代表的な異安心(異端的な信仰)ですが、その異端性に呼び名が着いているということは、逆に言えば、誰しもが陥りがちな、或いは陥いる、全関係者(全真宗門徒)の課題が、一概念としてしっかりと捉えられて、重要なイシューとして示されているとも言えるでしょう。現に特定の先師や先生を「生き仏」として奉ってるなんてことは、昔から星の数ほど例があります。

ただ、親鸞もまた直師法然に対し、深々とした全幅の信頼があります。これはカリスマ化と違うのかというのは、とても重要な指摘です。今回は割愛しますが、いずれ記事にしてみたいとも思っています。

異安心を考える時、教団の中央政権や保守体制が「是」であり、それに反するものを「非」として、シンプルな二極的発想で捉えがちですが、それはちょっと浅薄でしょう。
本当に「是」というものがあるのなら、それは仏のほうにあるわけで、人間がそれを掲げ出すからには手垢がつくことは免れ得ません。仏教徒であれば、どこかの御法主でも管長でも、仏教の大学の教授でも、大寺院の御住職でも、皆必ず、異安心(性)を有しています。

梵網経の「獅子身中の虫」という語を、「俺とは関係ない、変な主張し出したどこぞの誰かを、糾弾する時のための呼び名」くらいに済ましてはいけません。「獅子身中の虫」という語は、「仏教徒としての自己の有り様を確かめ、知らされる呼びかけ」かと思います。
世の中のあらゆる問題に対して、自身もその当事者であるのに、彼岸の火事みたいに他人事で、無自覚で、ただ漠然と自己の無実性を前提に日暮ししている私には耳が痛い呼びかけです。

「親しみ」が過ぎてもおかしなことになるってのは、割と皆さん実体験があるんじゃないでしょうか。先輩や先生に友達みたいなノリで接してヘタこいたみたいな…。ね。
それと近いですが、ネット見てると、「うちの〇〇(アイドル)をドラマに起用してくださりありがとうございます😭よろしくお願いします🤲」みたいな、あんた事務所サイドか親御さんかよみたいなコメントしてる人もよく見かける気がします……。

尊敬がありつつ、親愛もあり、持ち上げ過ぎず、踏み込み過ぎない。これは推し活の鉄則かもしれません…。

2022年12月27日


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