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#44 「暗き天にマ女は怒る この日〇終わり悲しきかな!!」

#1コマでどれだけ語れるかチャレンジ

人生の悩みのほとんどは、誤解から起こるのじゃないかと思うわ
小説家 L・M・モンゴメリ 赤毛のアンより

実際に事が起きてみないとわからないのが、世の常だ。

だが、僕らは何かが起こる前に、あれやこれやと勝手に考えては的外れな行動をしようとする。

それは、予測、予想、予言なんて言い方もできる。

しかし、未来の事は未来が来た時にしかわからない。

だからその多くは、十分ではない情報を元に推察した妄想に過ぎない。俗にいう「勘違い」というやつだ。

この勘違いの意味を見てみよう。

物事をうっかり間違って思いこむこと。

となっている。

もう少し詳しく見てみよう。まず、うっかりとはどういう事か。

ぼんやりして注意が行き届かないさま。
心をひかれて他に注意の向かないさま。うっとり。

そして、思いこむとはこうである。

深く心に思う。固く心に決める。そうだと独り決めして信じてしまう。

まとめると勘違いの意味はこうなる。

何かの物事に心をひかれ他に注意が向かないままに間違って捉えて、しかも、そうであると独り決めして信じてしまう。


そんな勘違いな1コマを今回はご紹介したい。

てんとう虫コミックスドラえもん第36巻収録「大予言・地球の滅びる日」からの1コマ。

ドラえもんが書いた単なる暗号日記を、未来を予言している本だと思いながら読むのび太とスネ夫。2人は勝手な解釈をして、勝手にどんどんと緊迫していく。何気ない町の風景の上に、黄砂で薄暗く不気味に見える空が描かれている。

このコマが出てくる時には、読者もそれが何を意味するのか分からないままなため、意図的なミスリードによって進んでいく。

それを構成した要素として、誰にも見せないであろう日記をわざわざ暗号化して書くドラえもんも相当ヘンテコだが、注目すべきはスネ夫のヒートアップさ加減だ。

スネ夫はいつものメンバーである5人の中では、誰よりも博識である。勉強はしずちゃんの方が出来るかもしれないが、スネ夫の知識や趣味嗜好、トレンドの追いかけ方などは他の4人の比ではない。彼は、とにかくミーハーな性格だ。

そういう性格なので、ノストラダムスの大予言とかそういったトンデモ理論みたいなものにも明るかったのだろうと考える。そして、今回はそれが故に物語が加速度的に深刻さを増していっている様に見えるが、こうなったのには実はちゃんとした理由がある。

スネ夫が怖い物は「ノストラダムスの大予言」なのである。このことは本人の口から語られている。詳しくは、てんとう虫コミックスドラえもん第27巻掲載〇□恐怖症を参照の事。

訳の分からない事が書かれた本をのび太から見せられたスネ夫は、それについて考えを巡らせるうちに、よりにもよって自分の一番怖いと思うものである物と結び付けてしまったのだ。

なぜ、自分の嫌な物と関連付けてしまったのだろうか。

「怖い物見たさ」だったのだろうか?

ご存じの通り、怖いもの見たさとは、怖い・危ないとわかっていながらも、それを見たりやりたくなったりくなってしまう事を指す。

この言葉で検索していたら、以下の様な興味深い論文がヒットした。

ソースはこちら

人間はしばしば怖いものを「怖い」と知りながらもあえて見ようとする。本研究では,怖いもの見たさの心理を,虚構と現実の区別を認識したうえで,安全な距離から怖いものと向き合い,「現実ではない」「でも,もしかしたら」と現実性の揺らぎを楽しむ遊びとして定義し,幼児期の発達においては,虚構と現実の区別の認識が獲得されるに従って,怖いものをあえて見ようとする行動をよく行うようになるのではないかとの仮説に基づき実験を行った。具体的には,保育園年少児20名,年中児33名,年長児39名に対して,動物またはお化けが描かれた「怖い」カードと「怖くない」カードを伏せた状態で提示し,どちらか1枚だけ見ることができるとしたら,どちらを見たいかを尋ねる課題(怖いカード選択課題)を行った。また,見かけ/本当の区別課題,想像/現実の区別課題も併せて行い,関連性について検討した。研究の結果,怖くないカードよりも怖いカードを見ようとする行動は加齢に伴い増加し,そうした行動は特に年長児において想像/現実の区別の認識と関連があることが示された。また,男児は女児よりも怖いものを好む傾向があることが示された。

人は幼少期からの成長の過程で、敢えて怖い物を選ぶ。とある。

しかもそれは、「現実ではない」「でも,もしかしたら」と現実性の揺らぎを楽しむ遊びという事である。

想像と現実の区別がついているからこそ、楽しめる。それが怖い物見たさであるとも言える。そして、怖い物見たさは遊びである。

ノストラダムスの大予言が流行ったのは、真実味を帯びているかのように捉えてしまった、世の中の雰囲気にあったと思う。

世界が滅亡するという予言が、もうすぐ来る。こんな突拍子もない事を、あたかも本当の様に煽りまくったのである。無論、最初は遊びだったに違いない。しかし多くの受け手によっては、信じるに値すべき危機感となってしまった。

その煽りをやっている方は遊びとしてやっているので、もっともっととエスカレートしていく。エスカレートしていく煽りに、受け手はさらに不安と危機感を募らせてしまった。

本来目指されていたものは、「現実ではない」「でも,もしかしたら」と現実性の揺らぎを楽しむ遊びだったハズである。

「ね?本当見たいでしょ?」と言った具合である。

ところがこの「でも、もしかたら」が大きくなり過ぎた結果、心のどこかで次につながるセリフとして「あるかも知れない」や、「あるに違いない」が来てしまう。やり過ぎたのだ。

スネ夫のいう、一番怖い物はノストラダムスの大予言という言葉は、このような感情から出ていると考える。

事情通でミーハーなスネ夫は、友達の中でも精神的な成長が早い方である。結婚相手の事を考えたり、大人がするような贅沢をしたがったりする。

そんな大人びた子供でも、周りの大人が本気で「嘘」で遊んでいると、それを「真実」であると信じてしまう。仮に信じ切らないとしても、これは遊びであり真実ではない。と言い切る事も出来ないような状態になる。

だからスネ夫はノストラダムスの大予言に対して、どっちつかずの不安定な心理状態になっていたと言える。

そういう不安感や不安定な心理状態のところに、意味不明な情報がもたらされると、まるで関係の無い事なのに、その不安に思うような事と結び付けてしまう。心における不安感が大きくて、他から入ってくる情報を飲み込むようなイメージだ。

人に何かを信じさせるには、不安定なところを突くと良い。振られた人を靡かせるには、なるべく早い方が良い。などと良く聞く。それは、その人の心が不安定で弱っている時の方が、その心を締めている不安と新しい情報(あなた)は混ざりやすいから。という理屈になる。怖い話だけど。

この時のスネ夫は当初、この本の内容が何かに似ているが思い出せないと言っている。なぜならノストラダムスの大予言を不安に思っても、実際には何も起こらないし、逆言えばできる事も無いので、時間が経つと忘れてしまうという事は、僕たちも経験から想像できる。

だが忘れていた不安を思い出して、新しい情報と関連付けた時、それは前よりも大きな波となって押し寄せてくる。

「あぁ、やっぱりだ!あれは本当だったんだ!」、と言った感じである。

そうなると真実はどうであれ、2つの情報がつながって膨らんだため、思い込んでいる状態になる。すると焦ってパニックに陥るしかなくなる。

そして自衛のためにできる事であれば、間違っていようが、人に迷惑を掛けようがお構いなしになる。冷静に話を聞くなんてもってのほかだ。一方では、興奮して周りの人たちにもそれを伝えだす。それが人の為だと思ってしまうからである。

情報を伝染させてしまうのだ。

バズる。という言葉は、もはや一般用語だ。SNS上では毎日何かがバズっては消えて行き、そのバズを創るために、企業は様々な事を画策する。

もはや作られたバズに対して、僕たちは飽き飽きしている日常であるとも言える。少なくとも、必要のない事がバズっているのを見ると、何がトレンドだと思ってしまう。どうせ明日には忘れる癖にと。

しかし、息の長いバズもある。それは往々にして、不安感とくっついたワードである。例えば、地震とか、感染症とか、今だとオリンピックやミサイルとかもそうかもしれない。

息が長いのは、多くの人がそれを不安に思っているからであり、それそのものが本当に不安視されるべきかは、あまり関係が無い事が多い

不安であるという思い込みの感情の為に、不確かであやふやな情報は拡散され続け、いつまでもトレンドとして存在している。中には、それを拡散する事が自分の正義であると考えている人もいる程だ。

スネ夫のパニックは、多くの人をパニックへと引き込んだ。パニックに陥った人の話は、多くが支離滅裂かもしれないが、真に迫るような要素が含まれる事もある。

誰かに嘘を信じさせるためには、真実の中に嘘を混ぜろ。と聞いたことがある。スネ夫が言っている内容は、全く真実ではない。しかし、その不安感や危機感は実際に存在する真実である。

真に迫る不安と危機感が伴っていれば、人をたやすく動かす事が出来てしまう。そういう事が、このお話には込められているのではないだろうか。

ドラえもんから真実を知らされたのび太は、家の玄関に殺到する人々にどう説明したら良いかと震える。そしてこの話は終わる。

大変な事になってしまったね。アハハ。で読者は終われるが、この後どうやって事態を収拾したのだろうか。それを妄想するのが面白いところでもある。

しかしSNSが当たり前の今、自分の発信した事がどこかでパニックを引き起こす可能性だってあり得る。場合によっては、勘違いしていたでは済まされない。誰だって、この時のスネ夫やのび太になりうるのだ。むしろ、今の方がそうなりやすいと言っても過言ではない。

僕らは、ネットリテラシーという事についてもっと考えるべきなんだろうと強く思った。

さて、勘違いという言葉から今回の話はたどっていったが、勘違いしている人にとっては、その勘違いしている内容こそが真実である。という側面がある事にも気が付いた。

それがその人にとっては真実である時、「勘違いしてますよ」と言っても、聞いてはくれないだろう。「は?勘違いしてるのはあなたでしょ」となるだけなのは想像に難くない。

そうなると、着地点としてはいろんな真実がある。という事になってしまう。

真実とは

嘘や偽りでない、本当のこと[1][2]。まこと[1]。真実は事実と同様で、皆が一致する一つの場合もあり、人それぞれに複数存在する場合もあるが、一般的には、他者との関係性を前提に社会で合意して共有できる皆が一致する、より公的で社会性を有する事柄を真実と言う。

とあるので、そもそもそういう物であるらしい。

そしてさらに、他者との関係性を前提に、社会で合意して共有できる皆が一致する・・・とある。

つまり、それが実際には本当でなくてもいいのだ。いや、それが本当になるのだ。

仮に、皆がノストラダムスの大予言は本当だと信じて合意したら、それは真実足りうるのである。現実的ではないけれど。

いささか愕然としたが、そういう物なのである。

あるかどうかも定かではないのに、自分の不安感に任せて、情報を拡散する世の中こそが、

皆がそう言っているから、確認はしていないけど、他の皆にも伝えなくちゃと思う世の中こそが、

未来から来たドラえもんがいるのに、地球が終わると信じてしまうスネ夫やのび太こそが、

真実の人間の姿なのかもしれない。

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