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『誰も教えてくれなかった「死」の哲学入門』内藤理恵子著:西洋の系譜から東洋・日本の思想まで

「死」のさまざまな捉え方を紹介する本。

前半では、キルケゴール、ヘーゲル、ニーチェ、ショーペンハウアー、プラトン、ソクラテス、フッサール、ハイデガー、ヤスパース、ヴィトゲンシュタイン、サルトルなどの西洋哲学者、後半では、キリスト、空海、鈴木大拙、釈迦、手塚治虫、源信、ダンテ、ブルーノ、(物理学者)セーガンといった、東洋、日本を含む思想家や宗教家、漫画家、理系学者の見方を提示している。

ニーチェの「永遠回帰」

多神教の宗教観と永遠回帰という死生観を、わたしたちはどう咀嚼すればいいのか。(p. 66)
ニーチェが理想とする人間を克服した人間像=「超人」とは、かけがえのない自分の人生を、たとえもう一度よみがえっても同じように愛し、同じような姿勢で生き抜くという強さを持つ人のことを指します。(p. 67)

生まれ変わるのではなく、同じ人生を何度も生きるのか。たとえどんなに苦しいものだとしても。「だからこそ前向きに生きます!」というところに強靭さを感じる。「生まれ変わったら次はこんな人生は生きない」などと考えるよりも、確かにいい人生になるかもしれない。

ショーペンハウアーの「空虚」

何かが達成されたと思っても、それは錯覚であったというのが人生であると考え、そのローテーションにも「停滞」が来てしまうと、「死にたい思いにさせるほどのもの憂さ」がくるとショーペンハウアーは指摘します。(p. 72)
ショーペンハウアーの死生観を、現在の日本のトレンドに照らし合わせて考えるならば、近年の「手帳ブーム」とも重なるところがあります。手帳に夢中な人たちは、「もの憂さ」に衣の裾をつかまれるのが怖いのか、次から次へと細かい目標を立てて手帳に予定を記入し、片っ端からそれを叶えようとします。
(中略)
実際、聖書とそっくりの判型や紙質の手帳が発売され、それを1日1枚、手書きで強迫的に埋めていくことで、自分の人生は充実しているのだと自分に言い聞かせながら生きている人は、驚くほど多いように思います。
(pp. 72-73)

確かに必死に手帳に書きつけて充実感を得ようとする姿は滑稽でむなしいかもしれないが、そうやって生きようとする姿は笑っていいものではないのだろう。

もっとどーんと構えて、ちょこちょことした達成感の積み重ねではない人生を送れたらいいが、私だって本を読んだ感想を誰が読むのでもないnoteにこうして書いている。(子どもの頃は、SNSやブログですらなく、決して誰の目にも触れないノートに手書きで読書日記をつけていた)

自分が生きていた証しを残したいわけでは毛頭なく、誰かに認めてもらいたいというのも違う(読んでもらえたらうれしいけど)。ぼーっとするのが好きなくせに、ずっとぼーっと生きていると不安になってしまう。

「やるべきこと」がたくさんあると疲れてしまうが、「やりたいこと」が尽きてしまったら生きる気力が湧かないのではないかと不安で、「次にやりたいこと」を探してしまう。

立ち止まってしまった自分が生き続けられるのかが怖くて、不安を埋めようとして「行動」する。でもその繰り返しが人生というものなのではないかなとも思う。

「人生は暇つぶし」という表現は本のタイトルなどに使われているようだが、ずっと昔からある言い方だろう(子どものときにも聞いたことがある)。そうしたたぐいの本やウェブ記事は読んでいないので彼らがどういう意味で使っているかはわからないが、「人生は暇つぶし」くらいの感覚でいた方が生きていきやすい、と自分に言い聞かせている。

フッサールの「現象学」

何かを認識するときに、「当たり前」とされていることにとらわれずに、自分で見つめ直す「純粋意識」の哲学が現象学だが、そうすると、個々の純粋意識がバラバラに存在するだけで、客観性を担保できない。そのため、他者の身体に感情移入して共通の世界認識を立ち上がらせるようにする。それを「間主観性(かんしゅかんせい)」という。(pp. 96-98の内容)

「間主観性」は、わかるようなわからないような、わからないようなわかるような。面白いので、もっと考えたい。

ヴィトゲンシュタインの「無時間性」

時間など存在しない(p. 150~ )――これはすごい。

下記は、本書で引用されているヴィトゲンシュタイン『論理哲学論考』(法政大学出版局)からの言葉。

永遠が時間の無限の持続のことではなく、無時間性のことと解されるなら、現在のうちに生きる者は、永遠に生きる。(p. 150)

全然理解できていないが、「永遠」は「無限の持続」という意味しかないと思っていたから驚いた。その意味で「永遠に生きる」のは嫌だと思うが(手塚治虫『火の鳥(未来編)』を連想してしまう)、「無時間性」がどういうことなのか、ヴィトゲンシュタインについてもっと知りたくなった。

ヴィトゲンシュタインの「言語の限界」

言葉で表現することの限界についても、哲学の本を読んだりしていると気になるところだったので、引き付けられた。肝心のその部分をメモに取り忘れたのだが、その付近にこう書いてある。

ヴィトゲンシュタインは、「この部屋の中にサイ(動物のサイ)はいない」ということすら論理的に納得しませんでした。自分には見えていないけれども、他者には見えている可能性、自分の認識能力も他者の認識能力をも超えた存在としてのサイが存在する可能性を徹底的に考え抜きました。
ばかばかしいような話ですが、厳密に哲学を詰めていくとなれば、現象学のようにある程度他者との共通の認識の枠組みがあると前提するよりも、ヴィトゲンシュタインのように、それすらも疑ってみる、という姿勢に軍配が上がります。(p. 159)

私はばかばかしいとは全然思わなくて、そのとおりだと思った。でも例えば、認知症などで「幻視・幻聴」があって、それは本人にとっては実際に「ある」のだ、と考えることとは違うのかな?それともそういうことなのかな?

ヴィトゲンシュタインは、最終的に「もう語るべきではない」「沈黙するしかない」というところに行き着いたそうだ。それで彼の登場によって「哲学は終わった」とも言われているそう。すごい!かなり面白いけど、それでも考えて表現し続けるのが人間なのかな。

サルトルの「突然の死」

ハイデガーは人生の最終地点に向かって積み上げていって「老年の死」を迎えることを想定したが、サルトルは「偶然が死を決定する」とし、若くしての突然死だってあるではないか、誕生前も死後も同じ「無」になるだけだ、と考えた。(pp. 171-173)

私は心情的に、ハイデガーよりサルトルの方が腑に落ちる。

無だけど「無駄」とは思っていなくて、無に帰るのみだからこそ生きている間は意味がなくもない。←これはサルトルの考えとは違うかもしれないが、私の思い。

空海の「救済対象」

空海が想定した救済対象は、人間に限らず、「空飛ぶ鳥」「地にもぐる虫」「水を泳ぐ魚」「林に遊ぶ獣」も含むと明記してある(p. 200)

この点が、東洋的といっていいのかわからないが、共感できる。欧米のキリスト教はどうしても人類優位だから。

まだ読んでいないのだが、『動物に魂はあるのか――生命を見つめる哲学』(金森修著、中公新書)という本のタイトルは、人間に魂があるとすれば動物にもあるに決まっているじゃないか、と思ってしまう。しかしヨーロッパ哲学では「決まっている」とは考えられていなかったのだろう。

(『動物に魂はあるのか』の序章の冒頭を試し読み機能で読んだところ、著者の実感に即したエピソードや考えや述べられていて面白かった。「動物や虫に魂はある」と頭では考えたとしても、対応としては人間の視点からいわば差別的な扱いをしているよね、という話とか、うなずいてしまう)

鈴木大拙の「海外への禅の紹介」

仏教哲学者で、アメリカでも働き、英語で禅などを海外に紹介した人(p. 207~)。

昔、どこかの外国でたまたま見た美術展にこの人物の名前が出てきて、禅に関する作品(現代アート)が展示されていた。それ以来気になっていたが、まだ著作を読んだことはない。

手塚治虫の「思想」

マンガ『ブッダ』の釈迦の思想における手塚治虫の独自解釈も加えるならば、彼は特異な仏教思想家であり、哲学的には医学的な視座に立った実存主義者といえそうです。表面的なジャンルの違いに人は惑わされがちですが、手塚治虫は世界のマンガ史に名を遺すとともに、哲学史にも名を連ねるべき人物ではないでしょうか。(pp. 236-237)

大胆な提言に見えるが、詩で哲学をやる人もいれば、漫画で哲学をやる人もいると思う。

常々、漫画家の山岸凉子さんは文学者で学者、特に心理学者だと考えてきた。論文を書き講義をするだけが研究者ではない。それに、シンガーソングライター・歌手のボブ・ディランにノーベル文学賞を授賞するなら、山岸凉子さんにも同賞をぜひあげてくれと思う。


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