オペラ『ペレアスとメリザンド』新国立劇場:現代的演出と歌唱的盛り上がりや歌詞の機微は両立できたか?
ドビュッシー作曲のフランス語のオペラ『ペレアスとメリザンド』。原作はメーテルリンクの戯曲だ。
舞台は、森と海があり、一年中暗くじめじめした王国。老王の孫で、結婚歴があり、幼い息子のいるゴローが、狩りの途中、道に迷い、ある泉にたどり着く。そこにいた美しく若い女性メリザンドを見初め、結婚する。新婦を伴って城に帰還するが、メリザンドと、ゴローの異父弟ペレアスは次第に親しくなり――。
今回の舞台では、上手と下手に巨大な箱型のセットをつくり、寝室、廊下、浴室、屋内プールなどに変化させる趣向。登場人物たちは演劇並みに動き、主役の一人であるメリザンドは、舞台上で下着姿にもなる。すべて歌なのだがせりふの側面が強く、オペラというよりミュージカルを見るようでもある。ダンスが入るわけではないが、特にメリザンド役は、そこそこ身体能力が要求される姿勢も取っていた。
大胆な脚色を施した演出、というのだろうか。物語全体が、現代に近い時代を生きる女性(メリザンド)の夢、という設定になっている。オペラの台本自体に色っぽい場面はあるのだが、本作ではなかなかあからさまなセックスの描写が数回出てくる。
受け身に見えがちなメリザンドをもっと主体的に描こうとしたという意図だとも言われているようだが、受け身でいるだけでなく、欲望し誘惑する役割も負わされた彼女は、余計に男性好みの存在に変えられてしまっている気もした。
一般的にオペラの演出、脚色がどういったものなのかがわからないが、結構無理が出ている設定だと思った。森と言っている場面が森ではなく室内にしか見えない、といったことを問題にしているわけでは、もちろんない。そもそも、メリザンドは、歌手と黙役の2人によって演じられ、2人が同時に登場していても、一方は他の人々には見えない存在として扱われたり、その役割が交代したりと、幻想的なつくりであり、全体が夢という設定なわけだから。
問題だと思ったのは、例えば、終盤、ペレアスとメリザンドの最後の逢瀬の場面で、ペレアスが愛していると打ち明け、メリザンドが私も愛していると応じるところなどだ。今回の演出だと、これより前の場面で2人はセックスをしているわけで、そうすると、愛していると「打ち明け合う」という効果は意味を成さないか、別の意味合いを帯びてしまうのではないか?(それとも、セックスをしてからだいぶ後に初々しく愛を告白するのがフランス流なのか?はたまた、セックスをしていたのと告白したメリザンドは別々の存在?)
『ペレアスとメリザンド』はただでさえ、台本を読むだけでも、暗示が多過ぎて、さまざまな解釈が可能で、いろいろと想像を巡らせてしまうのに(ほぼほぼよい意味で)、それにこうした演出が乗っかると、頭が大忙しでいっぱいいっぱいになってしまう。舞台上の身体や声、また舞台下の演奏に完全に集中することを妨げられる気がした。
シェイクスピア演劇の場合、新解釈の舞台や映画などが次々と制作されているが、原作をさらに楽しめるような、しかもよく練られた高度な脚色もよくみられる。その状況に比べると、オペラの演出とはどういうものなのかが気になった。シェイクスピア作品で、戯曲のせりふはそのままに(長い作品は場面が省略されることはあるが)、舞台を現代に移したり、斬新な設定にしたりしても、ちゃんとせりふと演出は合致しており、それどころかせりふの新たな面が見えたりすることも多々ある。そういう点が、今回の舞台には果たしてあったのだろうか?
歌を聞いていてすごく感動する場面がなかったのも残念だった。決して下手な歌唱ではないと思うが、ちまちまとまとまった印象で、特にどこかの場面が印象に残るということもなく、クライマックスもあまり感じられなかった。これは、『ペレアスとメリザンド』という作品のせいなのか、歌手のせいなのか(または演奏?)、演出のせいなのか、私の感性が発動しなかったせいなのか、は判断できないのだが・・・。
海外のキャストやスタッフが参加する、興味深い演出の舞台を見られたことはよかったのだが、庶民感覚としては、高いチケット代を払った分、もっと満足できる舞台を期待していた。しかし、いろいろと疑問を持てたことも、いいオペラ経験になったのかもしれない。オペラに慣れている人の意見も聞いてみたいし(いいことしか書けない立場の評論家の意見ではなく。いや実際によいと思って肯定的に書いているのかもしれないが)、脚色していない演出の『ペレアスとメリザンド』や、ほかのオペラ作品もいろいろと見てみたい(これまでにオペラの舞台を見たのは数回のみ)。
私の勉強不足が原因でいまいち感銘を受けられなかったのかもしれないが、フランス語のオペラ台本についてだけは、「まいにちフランス語 応用編」でちゃんと予習していた(笑)。
(『ペレアスとメリザンド』は象徴だらけだと思うが、妊娠と出産も、おめでたいものではなく、死と(未来ともだが)結び付けられた、不気味とも言える描かれ方をしている)
(ペレアスのいわゆる神経症的な仕草をする人物造形の演出も興味深かった)
(そういえば、老王もメリザンドに気があるような演出になっていた??)
(視覚的に面白いセットだったので、舞台間近の席で見られたらよかったのだろうな)
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