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「葬送のフリーレン」は、オタクに処方する麻薬である。


はじめに


前回の記事ではアニメーション演出を中心に批評しましたが、それだけでは物足りない、批評足り得ないと判断し、もう一度、書き直すことにしました。できれば前回の記事とセットで読んでいただければ幸いです。
さて、前置きはこのくらいにして本文を始めます。



ナーロッパとJAPファンタジー


ナーロッパ
 ・・・ファンタジー創作、特に『小説家になろう』界隈で用いられる中世欧州風ではあるが似て非なる世界の蔑称

批評家 宇野常寛氏はこれらの作品群のことをドラゴンクエストが代表するような日本式RPGの蓄積により生まれた「JAPファンタジー」と呼称している。
お気づきだろうが、JAPとは戦後敗戦国となった日本に対する米国からの蔑称であり、無論この造語は皮肉である。

どこまでも主観的な世界、ご都合主義的な物語、出会う女性が全員主人公のことを好きになるハーレム展開、チート能力等々、男の願望充足的な要素のオンパレードで女性視点の欠片もないジェンダー的に大問題な作品群こそがナーロッパであり、JAPと言われるのも無理のないほどの小説以下の文字ポルノであることは明白だ。

しかし、この文字ポルノも少し味付けと見た目を変えるだけで少年漫画雑誌の新しい看板作品になれることを証明したのが本作「葬送のフリーレン」の優れた点の一つであると言えるが表裏一体、それが本作の弱点となっていることも事実であり、それをこれから解き明かしていくことにする。

なろうファンタジーとの差別化?


前述でも述べたように本作はこれまで日本式RPGの蓄積によって作られた世界観(勇者と魔王が世界の命運を握っている)となろうファンタジーによって作られた中世風の世界観(明らかなオーバーテクノロジー描写と中世の風景や文化がごちゃ混ぜになっている)のミックスで構築されていることは、自明だろう。
それに加えて、特徴的なのがキャラクター造形である。
魔導書を集めること以外あまり興味がなく、俗世間的な活動を忌避するような生活を送る主人公フリーレンはまさに古のオタクそのもの。彼女の趣味を理解できないものの温かい目で見守ってくれる母的なフェルンはオタク趣味を理解しないが、見守ってくれるオタクが理想とする女性像。逃げ癖があるもののいざとなれば、隠された力を発揮するシュタルクは実はまだ本気を出していないだけで俺にも才能があるのだと信じたいアルファオス願望が一際強いオタクの気持ちを肯定し、感情移入先を提供してくれる。どれもが、オタク的想像力から生まれたキャラクターだ。これらから本作はオタクに特化した作品であり、もっというとアニメやゲームを浴びるように見たりプレイしたりするだけで、現実逃避が出来て、この止まったままの日本社会に身を置きながら、何の疑問も抱かず、ズルズルと日々を過ごす呑気なオタク達に「お前たちオタクは特別な存在なのだから、そんなどうでもいいことに目を向ける必要はない。」と無責任な慰めをくれる本作の作風に価値を見出す人が多く、それがヒットに繋がっているということだろう。

さて、今までは作品の外の話をしたが、外はあくまでも外。内容に目を向けるための準備として語っただけだ。

ではこのオタク的想像力からは何が生まれたのか?
答えは、簡単。他者視点の欠如だろう。

確かに優れた点もある、長命のエルフを主人公に据えることで、ファンタジー世界の設定を利用し、人間との時間に対する感覚のズレや、感情の有無、死生観から「人間とは何なのか?」をエルフ側から再考し、見つめ直すというお話の起点には、オリジナリティを感じられる。

しかし、優れていたのはお話を始めるための起点のみで、既存のものに差し込んでお話を構築している以上、本作も縮小再生産にほかならない。それを証拠に大筋に関わらないようなサブエピソードやサブキャラクターへの扱いは近年のコンテンツ消費と同じく、勇者パーティーの回想シーンを挟んだり、フリーレンが人間の生き方、見え方を考え直すためだけの使い捨てである。そこにサブキャラクターの葛藤もなければ、フリーレンに対する問題提起もない。あるのはただただ、感情移入を促すための自分視点のみで、他者視点が主人公一行のように深堀されることはない。

他者視点の欠如

自分の世界だけが存在し、他者は自分を成長させる理由付けとなる壁であり、自分をより良くするための踏み台で、痛みや苦しみを与え、自分たちを否定してくる他者は存在しない。あるのは、魔族=敵という一方的な敵意のみ。そのようなセカイ系やなろう系ではスタンダードである、味方にはどこまでも肯定的で、味方以外は自分たちを理解してくれない敵であり、攻撃的な態度をとっても相手が悪いのだから仕方がない。というような文法で構築される本作になろうファンタジーとの違いはどこにあるのだろう。
私には、あまり違いは感じられない。
なぜなら、そのような文法に対して否定的なシーンや物語上の展開が見受けられないからだ。あるのはどこまでも果てしない主観のみ。
やはり、オタク的想像力の力学の中で本作は成り立っているということは否定できない事実だろう。

延々と続くオタクへの甘え


前述の葬送のフリーレンに色濃く残るオタク的想像力への批判の次はオタクそのものへの批判から葬送のフリーレンを考えてみる。
そのために少し話は逸れるがオタクという言葉の流行とアニメブームの火付け役となった「新世紀エヴァンゲリオン」について触れておきたいと思う。


オタク=おたく という言葉が世間に知れ渡ることになった要因として挙げられるのが「新世紀エヴァンゲリオン」が代表する第3次アニメブームとインターネットの普及だろう。

新世紀エヴァンゲリオン・・・本作品は1990年代に始まる第3次アニメブームのきっかけとなった作品である。作品発表当時、物語の構造として、主人公の自意識や人間関係と、世界の命運という両極端なスケールの話が連動していることが斬新であったため、ポスト・エヴァンゲリオンともいうべき作品が数多く生み出され、後にそのような作品がセカイ系と呼称されるようになった。

Wikipediaより

ではなぜ、この作品が当時の若者の心を打ったのか?

これは持論だが、自分のセカイに引きこもることを肯定した作品だからだ。それまでの男性像が、「男たるもの、女の前では弱音を吐かず、醜態を晒すべからず」のような昭和的な瘦せ我慢美学であったことに対して、この作品ではヒョロヒョロナヨナヨ男子である碇シンジ君が自分の内面をさらけ出すことで、自分が存在する意味を価値を他者に認めてもらうといったそれまでの男性像とは真逆の美醜全てをさらけ出すキャラクター造形だった。
ある種それは、誰かに認められなければ自分は存在できないという他者依存の上で形成される被害者意識の暴走であり、自身の弱さをセカイに訴えかけることで初めて自身の存在が世界から認識され、接続する(接続した気になる)ことで成立するそれまでの痩せ我慢美学へのカウンターとして生まれたオタク的なマッチョイズムであって、この両者のマインドに主観的であるという点において本質的な違いはないのだが、このマインドがオウム真理教の一連の事件や阪神淡路大震災が齎す日本社会への不安と相まって当時の若者の心を強く打ち、「自分のセカイに引きこもることこそが自分自身と向き合うために必要な儀式であり人間の本質的行為だ。しかし、人前で弱みを見せない昭和的痩せ我慢美学なんて偽りの自分の象徴であり、それらで構成されている現実の方が虚構よりも偽物の世界である。」というそれまで当たり前だった旧時代の男性観への強烈な批判が自分のセカイに引きこもることへの肯定へと繋がりこの新世紀エヴァンゲリオンのカルトブームへの追い風になったのだと思う。

それから時代は流れ、政治腐敗による経済の停滞や恋愛のオワコン化による未婚率の上昇とそれに伴う少子高齢化が裏付けする通り、過剰に多様性が尊ばれ、一人で生きていくことが人生の新たな選択肢として理解された現代では、他者と接触することもなく、自分のセカイに引きこもることが特殊なことからある程度当たり前となり、当時センセーショナルだったセカイ系への肯定から生まれるオタク的マッチョイムズに現代社会への批判力は今や全くない。しかし、当時でさえ、TV版エヴァンゲリオンの最終2話と旧劇場版で「自分は間違ってました。虚構で生きることはできませんでした。現実は必要でした。」と、エヴァを終わらせるために苦闘していた庵野秀明の内面を現したような自己啓発セミナーのような演出や実写映像を差し込んで自身が生み出したオタク的マッチョイムズへの最終的な回答を出したにも関わらず、未だにオタクはオタク的マッチョイムズを形作るためだけにあったはずの、ただ現状を肯定し、他者からの批判を忌避するセカイの中で現実逃避し続け、自分を甘やかすためのポルノだけを渇望し、時代が移り変わっても尚自分のセカイに引きこもっている。つまり、エヴァンゲリオン放送当時は、世界と自身を接続するために自分を表現しやすいセカイを作って、自分の闘いやすいフィールドで世界と勝負する必要があった。しかし、今のオタクには、現実からの逃げ場を維持し続けるためだけにセカイを作って、そこに留まるという目的化された無意味で形だけのセカイしかない。

もうお気づきだと思うが、長々と書いたこれら一連の流れの果てにあるのが、序盤で批判した現在進行形で粗製乱造されるなろう系なのだ。

では、なろう系のフォーマットを利用して、ファンタジー世界を構築しているであろう「葬送のフリーレン」は、仮想敵であるなろう系への批判力を持ち合わせているのか?

答えはここまでの文章を読んで分かる通り、NOに決まっている。

要は、同じ穴の貉に語るべきことは存在しない。ということだ。

また、「なろう系への批判力がないので、ヒットせず、本作は凡作でした。」なら話は早いのだが、なまじこの作品がヒットしてしまったことで、現状を細かく分析し、それをエンターテインメント作品として昇華することで新たな批判力を伴って時代を変えてくれるアニメーションなど今のオタクは求めておらず、今も尚、ただただ現状を肯定し、自身を慰めてくれるだけのポルノしか必要ないというアニメーションの衰退をも証明することになってしまった。またまた、であるにも関わらず呑気なオタク達は、その状態に何の疑問も抱かず、SNSのマーケティングに踊らされてよく考えることもなく、無責任に傑作であると持ち上げて、一時のムーブメントに同調して同じ神輿を担いで安心し、批評的な視点や批判には完全無視を決め込んで、自分のセカイに引きこもったまま「これが新しいエンターテインメントだ!」と拳を挙げて勝ち誇っている。

そんな愚か者たちに支えられた本作は、オタク達がバカにする現実逃避と強く結びついた異世界転生もののなろう系と少し見た目や味付けが異なるだけでなんら違いはないし、本作を手放しで拍手し、絶賛している人も「こんなもの誰が観るんだ。」と見下しているはずのなろう系ファンタジーにどっぷり浸っている現実逃避者と本質的に何ら違いはない。

結局何が言いたいのかというと、葬送のフリーレン=なろう系であり、本作のファン=なろう系信者だということだ。


麻薬が引き起こす悪影響について


ここまでは、葬送のフリーレンの評価をオタクのマインドに絡めて書いてきたが、なぜそこまでして本作が評価されていることに関して、私は異議を唱えたいのか。その理由を書きたいと思う。

また話が逸れて申し訳ないが、まずはこの記事を読んで欲しい。


記事の中で取り上げられている童話「ごんぎつね」を使った授業の中で、
小学生達の口から出てきた、思わぬ回答とそれによって危惧される若年層の読解力、国語力の低下。この問題と、現代の物語体験をセットで考えると、非常に興味深い現象が表面化してくる。

結論を先に述べるが、この問題の原因は、著者の石井光太氏が語る若年層の読解力や国語力の低下ではなく、主観的で他者視点の欠如したファンタジーばかり摂取していることファンタジーに対する批判力が現在、0に等しいことだと考える。


石井 この童話の内容は、狐のごんはいたずら好きで、兵十という男の獲ったうなぎや魚を逃してしまっていた。でも後日、ごんは兵十の家で母の葬儀が行われているのを目にして、魚が病気の母のためのものだったことを知って反省し、罪滅ぼしに毎日栗や松茸を届けるというストーリーです。

 兵十が葬儀の準備をするシーンに「大きななべのなかで、なにかがぐずぐずにえていました」という一文があるのですが、教師が「鍋で何を煮ているのか」と生徒たちに尋ねたんです。すると各グループで話し合った子供たちが、「死んだお母さんを鍋に入れて消毒している」「死体を煮て溶かしている」と言いだしたんです。ふざけているのかと思いきや、大真面目に複数名の子がそう発言している。もちろんこれは単に、参列者にふるまう食べ物を用意している描写です。

『ごんぎつね』の読めない小学生たち、恐喝を認識できない女子生徒……石井光太が語る〈いま学校で起こっている〉国語力崩壊の惨状(文春オンラインより)


上記の文章の中で注目して欲しいのが、「死んだお母さんを鍋に入れて消毒している」「死体を煮て溶かしている」と言いだしたんです。
この部分である。

一見、「何でそんな惨い発想に至るんだ!冗談を言っているのか?」と思うかもしれないが、そうではない。
この回答をした子供たちは、実に真面目に答えている。

ではなぜこんな回答が生まれるのか?

答えは簡単、「ごんぎつね」を自らで物語化しているからだろう。


若年層の背景として、アニメ、漫画、ゲーム等の刺激の強い娯楽を通じて物語に触れることが多く、国語の教科書に掲載されているような童話や詩歌、純文学などを娯楽として読む機会が少ないことは、情報過多となった現代を考慮すると、容易に想像できる。
しかし、「ごんぎつね」を読んだことがなくとも、登場人物である兵十の気持ちを客観的に考えられれば、母親の遺体を鍋で煮るなんて回答が出てくるはずがない。

ならばこの回答が示すのは、刺激の強い物語世界に子供たちが慣れ過ぎたせいで、道徳を分かりやすく教えるために授業で扱う物語と、自身が楽しむために普段触れている娯楽の物語との境界線が曖昧になって、童話を自分が面白がれるように勝手に物語化して解釈することが子供たちの物語体験の中にデフォルト機能として当たり前のように搭載されていることだ。

分かっていると思うが、自身が面白がるために童話を勝手に解釈して、物語化するという思考は非常に主観的で、客観的な視点が欠如したものであり、童話「ごんぎつね」の中で描かれているテーマや、作者が伝えたい思想を無視した物語体験である。

ここで、「あれ?」と気づいた人がいると思うが、この現象、私が批判してきた、セカイ系やなろう系を欲するオタクと同じ考え方ではないだろうか。

自分が楽しむためだけの物語を渇望し、客観的な視点を持たず、描かれているテーマや思想を考えることもなく、自分の都合の良いように解釈する。

記事で扱われた子供たちと今のオタク、全く同じ思考パターン。

両者に共通することは、主観的なファンタジーを過剰に摂取していること。そして、他者視点が欠如していることだ。

前回の記事にも書いたが、かの巨匠アニメーション監督  高畑勲は、主観的な作品のことを「視聴者を汚染する麻薬である。」と評した。

現にこの麻薬が、若年層にまで悪影響を及ぼしていることへの証明が、上記の記事に書かれている「ごんぎつね」の問題だと考える。

また、主観的な物語の共通点として、現実と比較できないほど過剰に美しい風景、嫌な顔一つせず自分受け入れてくれる他者、殺すことに何の躊躇いも生まれないほど完全な悪である敵、挙げればキリが無いが、私たちが生きる現実の中に、こんな主観的で自分達にとって都合の良い世界は存在しない。

存在しないと自覚できるからこそ、一時の安らぎのためにファンタジーに触れ、現実で生きる糧とするのだが、記事にある子供たちのように、現実と虚構の距離感を正しく測れないと、ゲームのコントローラーで画面内のキャラクターを操作するが如く、童話を自身で物語化してしまうわけだ。

しかし、「その読み方、おかしいよ。」と伝えても、現代の子供たちには通用しない。

それもそのはず、現在、商業的にヒットしているものは主観的な物語ばかりで、それらを批判するような物語や批評、言説はほとんどない。
要は、氾濫するほど溢れたファンタジーから子供たちを守るための防波堤がほとんどないということだ。

故に、この状態が当たり前の時代に生まれた子供たちがファンタジーに触れる際、必要な常識がないのは当然の結果であり、麻薬が飽和するような状況をズルズルと30年ほど続けてきたエンタメ業界の罪は大きいはずなのだが、そのディストピアが崩壊するような兆しはエンタメ業界に一切ない。

(それは、ディストピアをユートピアだと錯覚し、金を落とし続けるオタク達がかなりの数いるせいだと思うのだが。)

ファンタジーに対する批判力が現在、0に等しい。これもこの問題に大きく関わっていると言える。

以上、二つの原因によって、童話を読んだはずの子供たちの口からとんでもない回答が飛び出すディストピアが現代なのだが、この状況をセカイ系が広まりだした90年代にいち早く察知し、自身の作品を使ってその問題に対して警鐘したアニメーション監督がいた。

それは誰か? この記事の中に答えはある。

そう。アニメーション界の巨匠 高畑勲監督

私が尊敬する岡田斗司夫氏のこの動画では、平成狸合戦ぽんぽことは、世にも珍しいファンタジーを使ったファンタジー批判の作品であると解説している。

この動画の16分あたりを注意深く聞いてもらいたいのだが、

戦後間もない時期のような貧しい時代には、希望の光となるファンタジーは有用だが、こんなにもファンタジーが溢れた現代ではむしろ害悪である。
とぽんぽこを制作していた辺りで、高畑勲監督は頻繁に警鐘していたと氏は語っている。

なぜ害悪に成り得るかは、この記事で批判したことの通りだと思う。

高畑監督の予言に30年経った今になって、気づくのはいささか遅すぎるとは思うが、本作の評価を下すに当たり、その問題を強く意識できたことは、「葬送のフリーレン」に感謝すべき唯一のポイントなのかもしれない。

総評


やはりぬるい。前の記事にも書いたが、これが現代のエンターテインメント作品の形なのだと思うと、エンタメ業界が下り坂産業であることは、容易に想像がつく。また、セカイ系という言葉が広まりだした90年代には、ほとんど可視化されていなかった高畑監督の指摘が、現在可視化されているはずなのに、改善するような動きもないまま30年ほど経った今でも通用していることに、この国のアニメーション表現が止まったままで何も進歩していないという現実に私は、打ちひしがれている。

ディストピアとは正になのだろう。

人類の歴史を辿ると、文化は貴族から大衆に卸されることで多様性を獲得したが、多様になることと進歩することは必ずしもイコールではなく、

文化を進歩させるのが人間であれば、腐らせるのも等しく人間であるということなのだろう。

最後にここまで読んでくれた人にこんな言葉を捧ぐ。

「小説を読めないバカが読むのが漫画でしょ。」by 岡田斗司夫氏

本作は麻薬中毒者が好むドラッグ作品。それが私の総評である。

あなたも麻薬中毒者の一員にならぬよう励んでください。それでは。


追記 無痛文明と葬送のフリーレン


無痛文明の病理とは、快楽と快適さの追求と引き替えに、生きることの深いよろこびが奪われていくことであった。しかし無痛化を望むわれわれの中の欲望は、この大きな流れを押し進めるばかりである。社会に適応しきった大人たちは、その流れを疑うことをしない。そのなかで、一部の若者たちは、自分たちが飲み込まれている文明の大きな病に気づき、それに抵抗しようとする。

  無痛化とは、快楽と快適さを追い求めることであり、そこから無痛文明の病理が出現しているのだから、それを食い止めるためには、快楽と快適さを求めるわれわれ自身の行為に対して、異議申し立てをするしかない。すなわち、快楽と快適さを追い求めるわれわれ自身に対して、否定の刃を向けなければならなくなる。

森岡正博 「無痛文明という病 」より 

この文章は、哲学者である森岡正博氏が2006年に執筆したエッセイからの引用である。

非常に興味深い文言がある。それは、 「無痛化とは、快楽と快適さを追い求めること」の部分である。それを念頭に置いて次の文章も読んでもらいたい。

とある脚本家のワークショップ(脚本家を育てるための塾のようなもの)での話。ある既存の小説を映像用のシナリオに脚色するという課題で、脚本家志望の20代男性が担当講師に言った。「見ていてつらくなるシーンは、カットしたいと思います」驚いた講師が理由を聞くと「観ている人を嫌な気分にさせたくないじゃないですか」との答え。(中略)世の中には、ただただ観客の快適、あるいは快楽を満たすことに全精力を注いだ商業作品が(特にアニメやラノベに)山ほどあるのも事実だ。

稲田豊史 著 「映画を早送りで観る人たち」より

まさに無痛化の権化とも呼べるエピソードではなかろうか。

脚本家志望の彼にとって、「見ていてつらくなるシーン」は快楽、快適を追い求める上で不要ということなのだろう。

例えばそれが物語を左右する重要なシーンであっても、彼は不要と判断するのだろうか?もしくは、視聴者に配慮する形で脚色してシナリオにするのか。どちらなのか私には判断しかねるが、どちらにせよその作品にもし原作があった場合、それは立派な原作改変であって、非常に悲しい結末となった「セクシー田中さん事件」にも繋がる問題だと思うのだが、この人はいや、この無痛化に支配された社会。森岡氏が言うところの無痛文明は、皆を幸せにするものなのだろうか。そして、おそらくこの無痛化に支配された社会に見事に適応して大ヒットを飛ばした本作『葬送のフリーレン』は世相を良く映した良い作品であると言えるのか。

やはり、私は、無痛文明には抵抗したいし、本作を手放しで褒める気にもなれない。


なぜなら、これは本文でも触れたことだが、私が本作に対して批判的な立場をとる理由の一つに、他者視点の欠如を挙げた。

だが、抽象的な言葉だけではいまいち伝わりにくいと思うので、具体的なシーンを用いて、説明したいと思う。

TVアニメ 『葬送のフリーレン』第17話 「じゃあ元気で」のBパート。

体調を崩したフェルンに暖かい寝床を与えるために周辺を歩くと、ポツンと建った一軒家が見え、そこで牛の世話をしながら暮らすおばさんが困った
フリーレン一行を快く迎え入れてくれる。

このシーンで疑問に思うのが、「なぜ、おばさんは三人の大所帯を臆面無く受け入れてくれるのか」だ。

でも、この疑問も無痛化というカギを使えば簡単に解けてしまう。

なぜなら、フリーレンが思い出を思い出すためだけにこのシーンとおばさんは存在するからだ。

要はこのおばさんのエピソードはフリーレン一行にとってどうでもいいことなのだ。

正に他者視点の欠如を象徴するシーンなわけだが、このシーン。

「実はこのおばさん、過去に冒険者が取り逃がした魔物に村を壊滅させられ、旦那さんを失ってしまった。だから、冒険者を見かけると、快いフリをして家に誘い、寝込みを襲い仇を打ってやろうと思っている。」なんていう他者視点をいれた脚本を私が書いて放送しようものなら、無痛化に慣れ過ぎた視聴者から反発を生み、「こんなのは葬送のフリーレンじゃない!」
「原作レイプだ!」と非難轟轟になることは明らかだ。

だが、「本当にそれでいいのか?」と私は思う。

勿論、今思いついたような稚拙な設定であることは認めるが、人間を描くということは、人間の善性や良心を取り上げるのは良しとして、それと同じく人間の悪性、醜い部分も取り上げて初めて成立するということではないだろうか。

しかし、無痛文明下である現代社会では、本作のように過剰に善性や良心をより良く見せて、醜い部分を排除する作品がヒットする傾向にある。

だから、脚本家志望の彼もあんなことを言うのだ。

もう一度言う。本当にそれでいいのか?

不要だと切り捨てていいのか?人間の醜い部分は。

もしかすると、そこに本質が眠っているかもしれないのに。

その可能性を排除していいのか?

ストレスフルだから、疲れているから、良いひとは良い行いをして良い話で終わったら良い。

「それって、自分の醜い部分を見ないため、自分を傷つけない話を欲するだけの快適主義。所謂、欲求を解消するためのポルノ中毒になっているのではないか?」と私は思う。

これも、本文で触れたことだが、戦後のような夢も希望もない時代には、
人間の良心を訴えかけるポルノは必要だと思う。

しかし、何もかもスマホで済んでしまう便利になり過ぎた現代にそんなポルノは必要だろうか?

否。必要ないだろう。

だからこそ私は、人間の醜い部分を包み隠さず描いた、『聲の形』
『アリスとテレスのまぼろし工場』を本作よりも評価している。

言うまでもなく、「人間を描く」というテーマに真摯に向き合った作品だからだ。

この評価を持って、私は無痛文明に抵抗することを誓う。

人間の本質は醜い部分”にも”存在すると信じて。


















































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