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アニメ 『葬送のフリーレン』の拙い演出から見えるスカスカのハリボテ感

現在、絶賛放送中のTVアニメ『葬送のフリーレン』
SNSやサブカル系のネットメディア等で盛り上がりを見せ、日テレが新しい放送枠を作るほどの期待を背負った本作。
私はTVアニメ14話視聴済みで、放送が2クール全28話だと分かり、折り返し地点のちょうど良いタイミングだと思い、映像演出を中心に批評してみたいと思う。(因みに、原作は読んでおりませんので悪しからず。また、本稿は本作を視聴あるいは読了済の方向けですので、ご了承ください。)

はじめに

本稿を書くにあたり、まずは所信表明をする。私は正直に言って、この作品をあまり評価していない。5段階評価だと3、100点満点のうちの65点だと考えている。理由はこの後書くが、今の段階でぬるい大絶賛記事を読んで、自分の抽象的な感想を補強するための材料にしたいと、この記事をクリックした方には後の文章はおすすめできるものではないことも併せて表明する。
私が書きたいのは批評である。本作の良い点というのは、みなさんが日頃、手軽に利用されている考察系動画やSNS、サブカル系のネットメディアなどで散々書かれているので、私が書く意味、価値はほとんどないと思う。
ですので、私は気になった点、嫌な言い方をすると悪いと思った点に言及することにする。そもそも批評とは「良い点と悪い点を公平に指摘し、最終的な評価を下す」そういうものだが、現在のネットワーク環境下では盛り上がりを見せる作品であればあるほど、賛の声が大きく、否の声は黙殺されるか、逆張りだと言われて嘲笑される。また、絶賛する大多数の人=大衆は批評のことを、同じ作品の感想を言い合って、楽しんでいる人達の気持ちを下げるための悪口だと認識している人が多い。その現状に個人的には「あなた達は、作品を自分が遊ぶためのおもちゃにして 作品の感想=自慢したいおもちゃを見せあいっこしたい だけで、おもちゃ=作品 そのものに愛着も無ければ、自分の時間を使って、その作品について真剣に考えたことなんてないのでは?」と憤りを覚えるが私の小さな力ではどうすることもできないので、そういう人達に対して何も語ることはない。私は良い点と悪い点を公平に受け止める度量、耐性のある方のためにこの記事を書きたい。以上、長い長い所信表明でした。

それでは本文を始めます。

拙い演出 1. 1話 フリーレンの涙

1話終盤、勇者ヒンメルが土葬されているシーン。教会での告別式の時にはヒンメルの死に実感がなかったフリーレンが土葬するために土をかけられている棺桶を見て、ようやく実感が湧いてきて涙するシーン。見る人にとっては大感動シーンだと思うのだが、私が気になるのが、泣いているフリーレンの表情だ。上記の画像がまさにそのシーンだが、悲しい表情をしながら泣いている。一見、普通のシーンに見えるが1話冒頭からこのシーンまでフリーレンの感情表現はかなり抑えられている。無論、他のキャラクターとの人間、エルフの種族間における時間感覚のズレを分かりやすくするためだが、それとは別に「二度目の旅で一度目の旅の思い出を振り返りながら、当時気づけなかったものに気付く。」というこの作品のコンセプトに進入しやすくするためのギミックとしての効果もあったはずだ。しかし、このシーンではしっかりと感情表現がなされている。ここで私はこう思う。「ここで悲しいことを理解してしまったら、これ以降の旅が必要ないのでは。」と。悲しいという感情を理解できないからこそ、思い出を振り返り、悲しさとは何なのか人が持つ感情とは何なのかを考えるための旅の話であるはずなのに感情を込めて泣くシーンを入れてしまっては、たとえ、その意図がなかったとしても悲しいという感情をフリーレンが理解しているように見えてしまう。そしてもう一つ付け加えると、フリーレンが泣いている顔のアップ数秒前までは、いろんな角度でフリーレンの目から下だけの顔のアップが映し出されるシーンが続く。これは涙するカット=見せ場をより良く見せるための惹きのカットだ。しかし、それ以上の演出的効果はなく、そのカットの連続で涙するフリーレンの顔がアップになることは容易に予想ができてしまう。本当に視聴者の心を揺さぶりたいのなら、ここは、涙を流すけれどその涙は一体何なのか分からないキョトンとした表情や無表情の顔のアップを見せ、状況を飲み込めないフリーレンの形容し難い表情見せ、視聴者の動揺を誘うか、或いは、あえて顔のアップを見せずに滴り落ちる涙で地面が濡れているカットを挟むことで悲しい表情を見せることを回避して、この先の物語への楔を打つためのシーンにするべきだったのではないか。だが、視聴者への伝わりやすさ、今風に言うとエモさを意識した結果、表現として凡庸なものになっている。原作の該当シーンも読んでみたが、同じような描き方だったため、原作を大切にするため改変しなかった。というアニメ制作上の縛り故の演出かもしれないが、重要なシーンであるからこそもう少し解釈の幅を持たせる演出ができたのではないだろうか。(と言いつつも、斎藤監督の絵コンテは他の話数のものに比べてもかなり良いものなので、期待しているからこその評価です。)


拙い演出 2. 11話 武道僧クラフトの扱い

この回で出会う武道僧クラフト。筋骨隆々でフリーレンと同種のエルフなのだが、興味深い台詞があった。正確ではないが、「自分を知っているものはもうこの世にいない。だから、長い間、自分の行いを見て頂ける女神様に死んだとき、褒めてもらうために信仰している。」という信仰の意味を理解できなかったフリーレンが変わるきっかけになるサブエピソードな訳だが、気になるのはクラフトのキャラ設定だ。武道僧なら、筋骨隆々であるというのはこの作品で最大限利用されている日本的RPGの蓄積によるコンセンサス。
それは分かるが、死んだときに褒めてもらうことと、体を鍛えて長生きすることに矛盾がある。早く褒めてもらいたいのなら、健康を維持するより、自然に生きた方が近道のはずだ。ましてやフリーレン一行のように目的があってそのために長生きするような理由もなければ、愛する人もいない孤独の身のクラフト。彼には今の考えに行き着くまでにフリーレンと同じエルフなればこそ普通の人間よりも長い年月に渡って苦労や葛藤があったはずだ。しかし、その辺りのエピソードが語られることはない。つまり、フリーレンの考え方が変わるための理由付けとしての機能しかこのクラフトというキャラクターとこのサブエピソードにはない。ここで少し話が逸れるが、似たような事案として、庵野秀明監督作「シン・ゴジラ」のダメな理由の一つとして、オタキングこと岡田斗司夫氏がこう言っている。「牧悟郎博士が冒頭に出てくるが、ちゃんと描けないなら意味ありげな人物を出すな!謎の人物で誤魔化せるほど観客はバカじゃないぞ!」と。この発言と同じことがクラフトというキャラクターにも言えるのではないだろうか。
真正面から向き合えないなら、新しいキャラクターを描く必要はないと私は思うし、むしろ、この作品のなんちゃってファンタジー感を助長することに繋がってしまう。作者としては、物語のほんの小さな一幕なのかもしれないが、「神は細部に宿る」有名な言葉だが、その一幕=細部を丁寧に描くからこそ、この作品の仮想敵だと思われる、なろうファンタジーとの差別化ができると思うのだが。


拙い演出 3. 12話 勇者の剣とシュタルクの過去

この回はアニメのAパートとBパートが繋がるようにできている。
Aパートは勇者の剣の封印とヒンメルの剣について。
Bパートはシュタルクの過去、兄について。
Aパートでは勇者の剣が未だに封印されていて、ヒンメルは剣を引き抜けず本物の勇者になれなかったが、偽物の勇者でも魔王を倒すことができた。
つまり、剣によって勇者は勇者足り得るわけではないというエピソードだ。次にBパート、回想シーンで魔族に襲われたシュタルクの故郷で兄に「お前は逃げるんだ。」と言われるシーンで幼いシュタルクは木剣を片手であっさり捨てて、逃げる様子が描かれる。ここで気になる点が、Aパートで偽物の剣を持ちながら、あんなに勇者の剣に固執し、引き抜けなかったヒンメルを描いて戦士、勇者にとって剣とは武器とはどういう存在なのかを意識させておきながら、幼いシュタルクの持つ木剣には何の意味もないように捨てさせる。現実的に考えると逃げる時に木剣といえど武器は邪魔になるのでさっさと捨てたほうがいい。しかし、そもそもそこにリアルな表現は必要ではなく、戦士が生きるファンタジー世界ならば、武器は戦士のアイデンティティであるはずで、戦士の一族であるシュタルクが簡単に武器を捨てて逃げることなどあってはならない。ではどうするべきだったのかそれは、シュタルクの兄が敵の魔族を前に木剣を固く握りしめているシュタルクの手を解き、木剣をそっと地面に置いた後に、「お前は逃げるんだ。」と言わせる。こう表現することで、戦士のアイデンティティよりも自分の命を大切にしてほしい兄のシュタルクに対する愛情が演出できるし、その回想シーンを思い出すまで自分の逃げ癖は兄を見捨てたトラウマによるもので、自分には戦士を名乗る資格はないと言っていたシュタルクが一族一の戦士だった兄が戦士の誇りよりも弟への愛情を優先していた故の行動、言動であり、シュタルクの逃げ癖は思い込みだったと気づいてシュタルクが戦士の健闘を称えるハンバーグをフリーレンより誕生日の食事として振舞われることで数年越しに兄から自分へ向けられた愛情に気付き、トラウマを克服するという感動シーンを演出することができる。
このシーンにおいて言えることは、リアルに描くことと、リアリズムを追求することは似て非なるものだということだろう。
キャラクターを人間っぽく描くことは作画の能力が高ければ高いほど可能だろう。しかし、リアリズムを追求するということは、キャラクターを人間のように見せるということだ。そのためには人間っぽい動きを捨てて、一見、理にかなっていないようなシーンを入れることで人間のように見せられる演出があり、それを踏まえた上で、コンテを創造することこそが絵コンテマンや演出の仕事だと言える。よってこのシーンももう少し演出を頑張って頂きたかったと思う。


拙い演出 4. 13話 ザインのタバコ

この回には新しく一行に加わるザインという治癒魔法の使い手が登場する。
このキャラクターの象徴的なシーンとしてタバコを吸うシーンが作中いくつも描写される。ではなぜ、ザインは作中、頻繁にタバコを吸っているのか。只のヘビースモーカーキャラだから。否、そんなはずはない。
ザインがタバコを吸う理由、それはストレスを忘れたい、思い出したくないからだろう。ならば、ザインにとってのストレスとは何か?
それは10年前に別れた親友のことだろう。
ザインは10年前に親友に冒険の旅に誘われた、しかし、自分のために聖都で神父として働く選択肢を選べなかった兄を想い、誘いを断った。
しかし、その選択を10年経っても未だに後悔し続け、その後悔を紛らわせるために酒やギャンブルやタバコで気を紛らわせている。ザインにとってタバコは後悔する気持ちの象徴であるはずだ。
では、最終的にタバコはどう描かれたのかというと、兄の想いを知ってフリーレン達の旅についていくと決心してもまだ、今までと同じようにタバコを吸うシーンを描写している。ちょっと待てと。フリーレンに「俺もついていくぞ。」と告げるなら、タバコは吸ってはならない。ここは、タバコを吸おうとする動きから、留まって、そのタバコをポケットに入れるという描写にするべきだ。そうすれば、いままで後悔してきた気持ち(タバコ)を吸わないことで、過去との決別だけを描く演出だけでなく、自分の中(ポケット)にしまうことで後悔し続けた10年を否定するのではなく、向き合って背負いながら旅をしようと決心するザインの気持ちまで射程を伸ばした演出ができたはずだ。しかし、このシーンもなんとなくタバコを吸わせればかっこよく見えるのではないかという見栄えだけのシーンでリアリズムの追求が全く為されていない。これは邪推かもしれないがこの13話の絵コンテを担当した川尻 善昭氏はアニメーターの絵コンテマンである。富野由悠季著作『映像の原則』のなかで富野監督は「アニメーターの中には絵コンテを漫画のネームと同じ読み方をする人がいて、自分が描いた絵的な見せ場を大事にする傾向があり、絵コンテを正しく読める、創作できるアニメーターというのは意外と多くはない。」と語っていた。勿論、絵コンテだけでなく演出の人にも問題はあるのだが、13話の演出ではザインがただのタバコ好きのおっさんのように見えてしまい、全く心が動かされず、勇者パーティーの僧侶 ハイターの酒好きと新しくパーティーに加わったザインのタバコ好きをタブらせるためだけの設定に留まっていて、全くお話の展開に活かされておらず、無意味な設定になっている。
これも拙い演出2で書いたことと同じで、ちゃんと描けないならば、意味ありげな設定をキャラクターに賦与するべきではないということである。
1キャラクターの1設定にさえ意味を見出し、そこから物語を作り出すのが群像劇の方法論であって、キャラ立ちさせるためだけの設定では、物語は紡げずただのキャラ情報に過ぎない。本当にこの作品はファンタジーを描けているのかと疑念の残るシーンだった。



演出とは補助線である

なぜ、こんなにも私は演出の重要性を訴えるのか。理由は簡単、それがあるのとないとでは作品の見え方が180度変わりえるからだ。と言っても信用できない人もいると思うので、具体例として、私が映像演出を語る上で非常に影響を受けた作品。三島由紀夫の『金閣寺』の話をしたいと思う。
あらすじは簡単にでいいので、この先の文章を読む前に(実際に読んでもらうのが一番いいが)Wikipediaなどで調べてもらうとして、私以上にこの作品の本質を理解していると感じた文章があるのでそれを紹介する。

この小説には「心象の金閣」と「現実の金閣」に引き裂かれながらもその一致を求め続けた主人公の苦悩を通して、現実と理想、虚無と妄信、認識と行為などに引き裂かれて生きざるを得ない私たち人間が直面する問題が刻まれているといいます。それだけではありません。三島が苦渋をもって見つめざるを得なかった日本の戦後社会の矛盾や退廃が「金閣寺」という存在に照らし出されるようにみえてきます。この作品は、私たちにとって「戦後」とは何だったのかを深く見つめるための大きなヒントを与えてくれます。更には、なぜ三島が自決という最期を選んだのかという謎にも迫れるというのです。

100 de名著「金閣寺」小説家 平野啓一郎氏のコメント(公式サイトより引用)


私が注目してほしいのが、「日本の戦後社会の矛盾や退廃が「金閣寺」という存在に照らし出されるようにみえてきます。」この部分だ。
金閣寺という作品の中では直接的に三島由紀夫の戦後社会に対する虚妄感を表現する文章はない。ではなぜ、平野氏はこのように作品を解釈したのか?それは、金閣寺=戦後日本 という演出的な補助線を引いてから、この作品を解釈したからだろう。
それもそうだ、三島由紀夫がどのような最後を遂げたかの事前知識があれば、金閣寺が戦後日本の状態を示唆するものであることくらい容易に想像できる。しかし、事前知識よりも前の段階で、こんなにも分かりやすくて、タイトルにさえなっている金閣寺には、何か寓意や作者がこの物語を解釈するためのヒントが含まれているという演出を見抜く力を働かせない限り、金閣寺=戦後日本という補助線は到底見えてこない。そしてこの補助線を引かずに『金閣寺』を解釈しようとすると、「悪さをした少年がお寺を掃除させられて、色々あって、頭がおかしくなって最終的に金閣寺を燃やした。」という奇人に起きた出来事を描いた物語だ。という表面的な理解になってしまう。前述の平野氏の解釈と比較すると、その解釈では、例えこの作品を読了したとしても、正しい解釈には至ってないことは簡単に理解できるだろう。つまり、補助線を引かない解釈では、活字を読んでいるだけで、作品を読めてない。ということだ。

これで、補助線は物語を解釈する上で非常に大事な要素であり、補助線を引くヒントとなるのが演出であることが具体例を使って証明できたはずだ。

では本作『葬送のフリーレン』は『金閣寺』のように補助線を引いて解釈するような余地はあるのか?

私は無いと思う。なぜなら、演出にすら目を向けられていない作品に語るべきイデオロギーは存在し得ないからだ。

何か訴えたいことが作者にあれば、物語や台詞、演出に無意識的に漏れ出るはずだ。しかし、本作には「泣かせてやろう。感動させてやろう。」という主観的な気持ちはあっても、この作品のミソであるはずの「人間とは。」という客観的な考えが全く感じられない。特に演出からは。
かの巨匠、高畑勲監督は「主観的な物語は視聴者を汚染する麻薬である。」と称した。

この作品も例にもれず麻薬なのではないだろうか?

作風ゆえに今、問題に上がっている倍速視聴はされないだろうが、麻薬にはいくらでも代わりがあるので、この作品も数多あるファンタジー作品のうちの一つとして消費され、時間経過とともにいずれ人々の記憶からも消えゆくことになるとここに予言しておく。



総評

一言で言うとぬるい。それに限る。
三島由紀夫の『金閣寺』に倣い本作を例えるとするなら、
「外側だけ美しい金の装飾を施しているだけで、中は凡庸な建築法で建てられた、清潔さすらも保てず、朽ちかけたスカスカのハリボテ作品である。」
これが本作への私からの評価だ。

最後に、私からここまで読んでくれた方へ問いたい。

以前、「文芸作品とエンタメ作品は別物。だから、演出なんて読み取れなくても良い。お前の評価はお門違いだ。」と言われたことがある。
果たしてそうだろうか?
私には「考える、理解する力がないからその能力を必要とされない作品の方が観るのがなんだ。楽だから面白いんだ。」と言っているようにしか聞こえない。
いつから、面白さとは、楽に観れることに変わったのだろうか?
そして、いつから楽に観れること前提でお話を作ることになったのか?

あなたはどう思いますか?

長文お読みいただきありがとうございました。































































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