【社会】歴史の寄り道 奈良~平安①編
みなさん、こんにちは、LITのノスケです。
今回は、前回の続きで「歴史の寄り道」シリーズの第三弾とし大化の改新後に出てきた偉人たちの意外な一面や素の部分を紹介していきます。
前回の「歴史の寄り道」では、蘇我馬子、中大兄皇子、中臣鎌足の意外な一面について話しました。前回の記事をまだお読みでいない方は、ぜひ以下のURLからお読みください。
また「歴史の寄り道」の初回では、このシリーズに込める思いについて話していますので、初回の記事をお読みでない方はぜひ以下のURLからお読みください!
【社会】歴史の寄り道 弥生~飛鳥①編|LIT-notes(Light up your TORCH)
聖武天皇ってどんな人
・聖武天皇って誰?
聖武天皇は食糧不足による飢饉、疫病の蔓延、災害などが発生した時代の天皇です。聖武天皇はこの危機を仏教の力で何とかしようと考え、日本全国に国分寺、国分尼寺を建て、奈良の東大寺には大きな大仏を作りました。(まさかの神頼み…)
・実は聖武天皇は〇〇だった
さて、こんな大変な時代の天皇になってしまった聖武天皇でしたが、教科書ではあまり述べられていない一面がありました。実は聖武天皇は引っ越しが大好きだったのです。皆さんは引っ越しというと、自分の家を引っ越すというイメージを持たれると思います。しかし、お引越し大好き聖武天皇ともなるとスケールが違います。なんと自分の家だけでなく、都ごと引っ越しをしちゃいます。例えば今日本の首都は東京ですが、首都を福島に引っ越すとなるとお金がめちゃくちゃかかることは想像できますね。こんなにもお金がかかるのに聖武天皇はころころ都を変えます。
このことから聖武天皇は引っ越しが好きなおじちゃんだったといえます。
<補足>
前の説明では聖武天皇が気分で都を変えていたと思われてしまい、そうなると少し語弊を招いてしまいます。そのため、聖武天皇が都を変えた本当の理由を少しだけ述べさせてください。
聖武天皇が都を変えた本当の理由は疫病や、災害、天候不良などが原因の飢饉など様々な災いから逃れようとしたためです。
先程、聖武天皇を引っ越し好きのおじさんといいましたが、実はその背景には深刻な課題があったのです。
さらに寄り道 きたなまろ??!!
教科書には登場しない人物なのですが、私が日本史の中でもトップレベルに面白いと感じる話が奈良時代に起こったので話しさせてください。
聖武天皇が全国に国分寺、国分尼寺を作ったり、東大寺の大仏を建立したおかげか、だんだんと疫病などの問題が解決していきます。そうなるとやはり、「仏教の力すげー」となり、仏教が人気になります。
こんな仏教が人気な時期に、道鏡という僧が天皇の病を治したということで、法王(仏教の最高責任者)にまで出世します。
道鏡は「このままなら俺、天皇になれるんじゃないか?」と思い込み、天皇に「神様から私は天皇になるべきだ」と言われたといいに行きます。
天皇は「そんなわけあるかい!」と断りたかったと思います。しかし天皇は道鏡に病を直してもらったという恩があったので、神が本当にそう言っているならいいよと天皇は道鏡に言い、天皇はこれを確かめるべく、和気清麻呂という人物を宇佐八幡宮に派遣しました。
神の声を聴いた清麻呂は「神は道鏡を天皇にすべきでないとおっしゃっていた」と言ってしまいます。これに腹を立てた道鏡は清麻呂という名前を穢麻呂(きたなまろ)に改名させます。
道鏡と清麻呂どちらの言っていることが正しいのか私にはわかりませんが、いい大人が、自分のやりたいことを邪魔されたからって、清麻呂を穢麻呂に改名するなんて、とても幼稚だと思いますし、やるとしても少しくらいひねった名前を考えろよ!といまだに思います…
桓武天皇ってどんな人
・桓武天皇って誰?
桓武天皇は道鏡などによってハチャメチャにされた政治を立て直すために平城京から平安京に都を移した天皇です。また、桓武天皇は坂上田村麻呂らに命令し、朝廷にしたがわなかった蝦夷たちを倒しました。
・実は桓武天皇は〇〇だった
桓武天皇は、政治を立て直すために、都を移したり、朝廷に従わなかった蝦夷を討伐したりと、天皇中心の政治をするうえで、必要なことを適切な時に行っているのでかなり頭が切れる人物だったのではないかといえます。
しかし、こんな桓武天皇にも意外な一面がありました。実は桓武天皇は弟に恨まれてしまった悲しいお兄ちゃんでした
桓武天皇は平安京に都を変える10年前の784年に実は平城京から長岡京に都を移しました。その1年後事件が起こります。桓武天皇の弟、早良親王が、長岡京を作るにあたっての責任者を暗殺した容疑がかけられてしまいます。桓武天皇は弟を流罪にしました。その後、早良親王は死亡したといわれています。兄が弟を流罪にするなんて、桓武天皇もとても心が痛んだのではないかと思います。こんな悲しい話、これで終わればよかったんですが、早良親王が亡くなって以降、不可解なことが続きます。ざっくり何が起きたかまとめます。
・皇太子の発病
・母の病死
・疫病の流行
・天候不良 など
これらのことを受け、桓武天皇は早良親王の祟りだと考え、この呪われた土地から都を移そうと考え、たった10年で平安京に都を移しました。
早良親王が暗殺したのかしていないのかは、今分かりません。しかし、仮に冤罪だったら早良親王が兄の桓武天皇を恨んでしまうのは少しわかるような気がします。これらのことより桓武天皇は弟から恨まれてしまった悲しいお兄ちゃんだったことがわかります。
さらに寄り道 菅原道真の梅の木、空を飛ぶ!
最後に、菅原道真と道真の伝説について少し話します。
菅原道真の主にやったことは894年に遣唐使を廃止したことです。道真は藤原氏とかかわりのない天皇と仲良くなり、右大臣というポジションまで昇進した人物です。しかし、藤原氏から見れば、自分たちとあまり仲が良くない天皇と仲良くしている道真はとてもうっとうしかったのです。そのため、道真は藤原氏から濡れ衣をかけられ、大宰府(福岡県)に左遷され、晩年を大宰府で過ごしました。
道真には梅を愛でるという趣味がありました。左遷されることになった道真は、日ごろから愛でていた梅に
「東風(こち)ふかば にほひをこせよ 梅花(うめのはな)主なしとて 春を忘るな」
という和歌を送るほど梅を溺愛していました。
道真が大宰府に左遷されたその日の夜、道真が梅のことを懐かしく思っていると、急に空から梅が飛んできたという伝説があります。(飛梅伝説)さすがにこれは無理があると思うかもしれないですが、実際に大宰府の梅の樹齢を調べると約1000年前から生えていることがわかりました。そのため、本当に梅が道真を想い空を飛んだのかもしれないですね!(さすがに梅は空を飛ばないと思うので、道真を慕っていた人達が、梅が好きな道真のために都から送ったものなのではないか…)
まとめ
今回は聖武天皇、桓武天皇、の意外な一面や人間性について話していきました。今回は疫病とか怨霊とか内容が少し怖めになってしまいましたが、彼らの意外な一面を知ることができたと思います。
今回はお読みいただきありがとうございました。
次回は平安時代中期にかけて、藤原道長、紫式部、清少納言などの人間性や意外な一面について話していきます。
ぜひ次回もご覧ください!
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