無責任のつまらなさ

匿名だから、無責任に人を傷つける投稿をして、自分は無傷だと思っている。

自分とはなにか?

自分が自分である根拠は、なにか?

顔も名前もわからず、本人が特定できない人の情報にどれほどの価値があるのだろう?

ペンネームで活動されていても、その方の書く内容を見たならば、その人がどのようなことに興味があって、その人の中での一貫したテーマはこういうことだな、

また、その人の人となりや、他者に何を求めているか、その人が他者から信頼を得る基盤としているもの(職業や立場、経験や正直さなど)などは、

伝わる。

でも、私たちは、そんなに本気で他者に興味を持つことって、できるのだろうか?

他者に興味を持つとすれば、よほどその相手が自分にとって目新しい(見たことのないような属性の人だったり)とか、

その人の発信する内容が、なにかしら自分にヒントを与えてくれると感じる、

あるいは単純に面白い、

など、何かしらの強烈なインパクトが必要だと思う。

あとはやはり、自分にとってのメリット

自分が売り物にしているものは、何か?

自分が自分でなければ、誰が自分の代わりをやってくれるのだろう?

そんな人はいない。



正直に自分をそのまま発信することの恐怖は、

一つには、

知らない不特定多数の他者に向かって自分を開示することの恐怖

だと思う。

そして、表現したものは、残る。

しかも、コロナの世になってからは、私たちの間には見えない何かに対する恐怖心やら、他者への不信感やら、どこに表現したら良いのかわからない怒り

心が締めつけられるような他者からの悪意

二律背反(矛盾したものを堂々と表現して恥じることのない権力者達の姿など)

死への恐怖

生きる意味への希求

そんなものが渦巻いているような氣がする。

だからこその、匿名性であるのかもはしれない。

ただ、今の情報社会にあって、

見る人が見たならば、本人の特定などは容易にできる。

箸にも棒にも引っかからない、そんな情報発信ならば、そんなに本気で相手にはされないだろう。

あとは、裏がある場合。

この人は、自分の知っている情報をここまで一般の人々に向けて発信しているけれど、

この人はご自身の存在の根拠を、この辺に置いているな、とか。

ここのところで、この人はバランスを保っているな、とか。



誰に向けて、何を発信したいのか?

自分は、何が売り物なのか?

これは、私自身が今自分に問うていることです。

自分を正直に表現すると、自分に興味を持ってくれる人は、増える。

でも、そのことによる弊害も、出てくる。

もちろん、公に表現されているものは、公に表現されているものであって、

誰しもが読むことのできる情報

自分以外の他の人にも、等しく発信されている情報に過ぎない。

しかし、公に堂々と表現されているということは、その人は自分のスタンスを堂々と表明している、ということでもある。

表現すれば、自分の心の変遷や興味関心の変化、成長(不成長)などの様子も、明らかになる。

自分でヨガを教えるということを始めた当初は、私はバカみたいに発信しまくっていた。

発信の力を信じていたので、その通り、発信が契機となって、多くのご縁を引き寄せたり、新しい行動が生まれていった。

世の中がまだ、今ほど暗くない時期であったこともあったとは思う。

これは、私自身に対する自問自答でもあります。

人を変えることなんて、できない。

変える必要もない。

自分が責任を取ることができるのは自分だけであるならば、

やっぱり自分が自分の納得できる自分であるために、

日々行動し、試行錯誤するより他ない。

他の人は誰も、私の人生に、責任を取ることなどできないのだから。

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