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黄金を巡る冒険⑥|小説に挑む#6

黄金を巡る冒険①↓(読んでいない人はこちらから)


次の日も、老人はいつも通りバス停に座っていた。
老人から言わせれば、バスを待っている、と言う方が正しいかもしれない。

バス停には、老人が座っている青いベンチが一台と、「BUS STOP」と書かれた看板が一つ立っているだけだった。おそらく、昔は時刻表があったのだろうが、今は廃線によって撤去されている。
車道と歩道の間にある、幅2.5メトール、奥行き1.5メートルのとても小さなバス停。その簡素な外観は、より一層老人を世界から孤立させているように見えた。

「今日こそ来るといいですね」
僕は車道を挟んで老人に尋ねた。
「今日は来んよ。まだ早すぎるわい」
老人は僕の方を真っ直ぐ向いて、そう答えた。
老人の回答は意外だった。バスが来るから待っているのではないのか?

「どういうことでしょうか?」
「バスが来ることは決定しておる。それはわしがこの世に生まれた時点で決まっている。わしはその日をここで待っているのじゃ。
お前さんは何か勘違いをしておるな? わしはバスを待っているのではない、バスがここに来る日を待っているのじゃ」

バスがここに来る日を待っている、と老人は言った。
それはバスを待つことと何か根本的に違うのだろうか? 僕にとってはどちらも同じことのように思えたが、老人にとっては明確な違いがあった。
僕はこの老人と比べるとうんと若い。だから老人の哲学と僕の思考回路には天と地ほどの差がある。それだけのことだ。

老人の座っているベンチの背もたれの真ん中には、黒太字で次のような文字が書いてあった。
――「このバス停は現在使われておりません」

NOT IN SERVICESノットインサービシズ, 僕はそのことを、わざわざ老人に言わなかった。
老人だって毎日そこに座っているのだから気付いているのであろう。
それを僕が口に出すのは野暮というものだ。
老人は確信している、バスが来ることを。それは生まれた時から。

僕は老人と会話を終えたあと、スーパーマーケットで買い物をした。
最近は卵が高い。数年前と比べると3倍は値段が上がっている。それに牛乳も野菜も相応に値段が上がっている。
旬のものは幾らか安い傾向にあり、鮮魚もまだマシな上がり幅だが、それでも物価自体は確実に上がっている。

おそらく、これからもまだ上がり続けるとニュースでは報道していた。
インフレーション。
だが、本来インフレは物価の高騰に伴い、賃金も上がらないといけない。
でないと需要と供給が一致しない。経済モデルとして破綻している。

そろそろこの国もダメなんじゃないかと、買い物をしながら考えていた。
おかげでずいぶん長い買い物となってしまった。

美しい薄暮が帰り道を照らしていた。老人は未だベンチに座っている。
老人の前を、何台かのバスが通り過ぎていく。
バスが来る日はまだ先らしい。

数日が経ったある日、僕は彼にずっと抱えていた疑問を聞いてみた。
「あなたが乗るバスは、いったい何処へ行くのでしょうか?」
老人は答えた。
「彼女のいるところじゃよ」
「彼女? 奥様のことですか?」
「そう、わしの妻じゃ。彼女は先に行ってしまった。申し訳ないことをした。彼女は独りに慣れていない。きっと彼女は寂しがっていることだろう。
だからこそ、わしも早く行かねばならぬ」

老人は俯きながら、しゃがれた声(少なくとも僕にはそう聞こえた)でそう言った。それはまるで自分自身に話しているようだった。彼は何かしらの後悔を抱え、そこで静かに街の一部としてバスを待っているのだ。

彼はとてもきっちりとした格好をしていた。
チャコールのツイードスーツに淡い緑のストライプシャツ、しっかりと締められた深緑のネクタイ、そして良く磨かれた牛革のプレーントゥを履いていた。もちろん内羽根式のホールカットタイプだ。

お洒落な着こなしで、とてもトラディショナルだ。
僕は杖には詳しくないのだが、おそらく彼が持っている杖も拘りこだわりがあるのだろう。

「とても素敵な着こなしですね。杖にもつやがある」
「あたりまえじゃ。久しぶりに会う妻に、不格好を見せるわけにはいかんじゃろう。わしの一部となるくらい、しっかり着込んで、体に馴染ませてから会わんといかんのじゃ」
僕は二回頷いただけだった。その老人の完璧主義に対して、僕は何も言葉が浮かばなかった。人生の年季がまったく違う。それは”格”と言っても良い。

僕はまだまだ大人になれていない、単なる”大人”だった。
肉体的に成長した、子供より大きいだけの人間だ。
だが、この老人は正真正銘の”大人”だった。人間としての格が違うのだ。

僕も老人の姿勢を見習わなければならないと思った。
「あなたみたいな”大人”になるためには、僕はどうすればいいのでしょうか?」
「なんじゃ、大人になりたいのか?」
「はい」

少しの沈黙あと、老人は杖を見つめて言った。
「ふむ、大人という基準は案外難しいもんでな、人によって捉え方が異なるからのう。見方の問題なんじゃ。だが共通して、身に着ける”モノ”の意識を変えることが大事じゃな」
「服装ですか」
「そうじゃ。値段が高い物を身に付けろと言っておるのではないぞ。自分が良いと思う”モノ”を見つけるのじゃ。まずは靴や時計からでも良い」

老人は続けた。
「自分で探し、見つけるのじゃ。それらを見つける旅が、お主を大人するだろう。”モノ”を見る力が価値観を形成すると肝に銘じておきなさい」

僕は家に帰り、姿見鏡で自身の格好を点検した。
老人ほどでは無いが、ニットにシャツとジーンズの組み合わせで、小ざっぱりした見た目ではあった。だが、特徴というものが無かった。

老人には確固たる”個人”があった。それは誰が見ても納得できる”個人”だ。
彼は別れ際に、まずはしっかりと体を洗うことから始めるといい、と言っていた。
僕は風呂に入り、今までで一番丁寧に体を洗った。今までこべり付いた汚れを綺麗さっぱり洗い落とすために。

僕に染みついていた”汚れ”はしっかりと落ちていた。不思議と体が軽かった。青空の下で深呼吸したように晴々とした気分だった。
落とした”汚れ”は、僕の惰性であり、偏見であり、今まで身につけた常識でもあった。

きっと今の僕は、全てのモノを受容できるだろう。さて、最初に身につけるべきモノは何だ?
僕には何も思いつかなかった。僕は空っぽだった。
それは汚れを落としたジレンマだった。

僕は仕方なく、下着を履いてから、悩んだ末に同じ服を着た。

第六部(完)

二〇二四年一月
Mr.羊

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