「もういいよ、ササ美さん」(4)_完
「ねえ、ママ!!ちょっと聞いてる!!」
娘のササ子に揺さぶられ、ササ美は我に返った。
覚えていらっしゃる人がいるだろうか。(1)の冒頭だ。
ワカナさんに大葉をそっと挿入されてからというもの、ササ美さんは頻繁に物思いに耽るようになった。無論、冷蔵庫内及び冷凍庫での数日の話であり、人間の時間感覚とは違う。だが、そこはさほど重要ではない。とにかくササ美さんは考えた。そこには生真面目な彼女らしく、自分への憤りと悲しさに包まれていた。
「ふしだら」「愚か」ー。どのような評価や意志が存在しようと、それとは無関係に、食品は調理される運命。愚かか否かなんて、本当は関係ない。無論、人間だって、地位や名誉、小さな社会のマウンティングなど、愚か極まりないことに人生の大半を費やしているが、これもスパンが違うだけで、大した意味がない。ただ、意味があるようにしないと、過剰に発達した思考の行き場がないだけだ。所詮は神の遊戯。宇宙の中ではササミも人間も一瞬にも満たない存在でなんら大差ない。
「もういいよ、ササ美さん」
ササ美さんがふと我に帰ると、ササ男さんの声がはっきりと聞こえた。
「ササ男さん!? ササ男さんなのね!? ごめんなさい、私・・。」
「ふうー」。ササ男さんが微笑みながら深い息を吐くような音が溢れた。それは、幼い子が駄々をこねた時に母親から出る、幸せなため息の類だった。
「だけど、ササ男さん、あんなひどい捌き方ないわ、私、許せない・・・!」
「哲学的な死? どういうこと?全く意味がわからないわ」
「やだ、ササ男さん、見てたなんて、なんだか、すごくエッチだわ」
ササ美さんが、一層、頬、いや全身をピンク色に染めていたところ、ふっとササ男さんの気が遠くに行った。分身の冷凍ササミが食べられたのだろうか。
ササ美さんには彼が言ってることは、ほとんどよくわからなかった。だけど、彼の言葉は甘美で高貴なことのように思えた。王女がこっそりと食べる極上のチョコレートのように、しっとりとササ美さんを包み込んだのだ。
「ササ男さん、初めて私を呼び捨てにしてくれた」
翌日。
ササ美さんは少しだけ、和らいだ表情を見せていた。二回目であるにもかかわらず、ワカナさんは初回同様にササ美さんの曲線に沿ってそっと包丁で撫でた後、丁寧にフォークで筋をとり始めた。人間だってそうだ。常に初めて出会った頃のように新鮮な気持ちでいられたら、狂おしいほど愛おしく思う気持ちだけでいたら、どれだけ幸せなことだろう。忘却とは博士が愛した公式と同様、一種の幸福。いつでも「初めまして」でいられることと、目に見えぬほどの日々の微量な積み重ねが、「人を愛する」ということに繋がるのではないか。
「あん。もう、いや・・・」
そう、ササ美さんは呟き、ワカナさんが中に大葉を入れやすいように、少しだけ自らを柔らかくした。ワカナさんは今日は大葉だけでなく、梅肉もそっと挟んだ。爽やかな酸味と甘味がササ美さんの全身へ駆け巡り、えもいわれぬ快感が訪れた。
もうこれ以上、抗うことはできなかった。理由や根拠を説明できる領域ではない。ササ美さんは人知れず絶頂を迎えたのち、ピクピクと全身が痙攣した。それは誰にもわからないほどの、微かな変化だった。遠のく意識の中で、ササ美さんは呟いた。
「ササ男さん。私、なんとなくわかった気がする。きっと全ては巡り合わせなのね。私と出会ってくれてありがとう。私、あなたと過ごしたこの時間を決して忘れない」
ササ美さんは女として、いや、「ササミとして産まれてよかった」と心底思えた。豚肉や牛肉だったら、脂身が邪魔して、大葉や梅肉の酸味の爽快さが薄れる。同じ鶏肉でもモモ肉の脂が冷えた時のうっすら白い膜が大葉につくのは、やはり美しくない。なのに、濃厚なチーズといったものにも柔軟に自分のものにできる。
持ち前の淡白な肉質のおかげで、様々な姿に変えられる。そう、それがササミ。 生まれ変わりが肉と指定された上で選択肢があるならば、私は迷わずササミを選ぶだろう。
だって、ササミも女もどうしようもなく貪欲で美しいのだから。
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