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【完璧な自分になるまで】

週末、お気に入りの本 "Untamed"をまた読み返していました。
本の中のお気に入りの箇所がいくつかあって、それらを読み返してると、瞑想のクラスで会う生徒さんや、生活の中で会う友人から、たまに聞くことのある話を色々と思い出します。そんな中でも、「完璧な自分」の存在を信じている話はとても多い。

私自身は瞑想のヨーガを17年、インド哲学はもっと昔から、また、体を動かすいわゆるなヨガは11年、そして日本の茶道を25年続けており、比較的分かりやすいマインドフルネスを育くむ道を辿っている方だと思います。が、こういうザ・マインドフルネスみたいな道ではなくても、世の中には何かもっと別の道から、マインドフルネスの力を育てたり、その力の本質に自覚的でありながら暮らしている人がいるものです。

この好きな本の著者Glennonもその1人。ここでは自分自身の”ghost"(ゴースト)と表現していますが、これってつまり私たちのよく言う、「完璧な自分」像のことだと思います。

“...I believed that somewhere there existed a perfect human woman. She woke up beautiful, unbloated, clear skinned, fluffy haired, fearless, lucky in love, calm, and confident. Her life was...easy. She haunted me like a ghost. I tried so hard to be her.  ...I still believed that there was an ideal human and that I was not her. There should be a better, version of myself. ” (私はきっとどこかに、完璧な女性っていうものが存在してるんだと信じてた。その人はきっと、美しく目覚めて、浮腫んでなんかいなくて、透明な肌とふわふわの髪をしてて、ビクビクしてなくて、恋愛にも恵まれてて、落ち着いてて、自信があって。そんな彼女の人生は・・・ラクで。この完璧な女性は私のことをまるでゴーストのように追いかけてきたの。私は、その完璧な彼女になろうと必死で努力してた。...やっぱり、どこかに理想の人間っていうのがいるって信じてて、自分はその理想の人にはなれてないって思ってた。どこかには、もっと、"良い"バージョンの自分がいるんだ、と。)     by Glennon Doyle

皆さんもこう思ったことがありますか。「きっとどこかに、もっと”良い"バージョンの、完璧な私っていうのがあるはずなのに・・」と。仕事も、家族も、恋愛も、あらゆる人間関係も、ライフスタイルも、スキルだって、メンタルだって、もう何から何まで理想通りな、スーパーパーフェクトな女性バージョンの自分がいるはずなのに、と。

そして人から相談されたり、質問されることを聞いてて、よくこうも思うのです。 どこか、私たちのどこかに、”毎日を美しく生きなければならない”、というbelief(観念)があるんじゃないか、と。
だから例えば、今日を”美しく”生きられなかった自分や、今日どころか最近、今年、いやもうずっと、”美しく”毎日を生きられていない自分が嫌になる。 パッと見てなんだか全部が上手くいってる人を見ては、”美しく”ちゃんと毎日生きれてる人を見ては、比べたくないのに比べて、余計嫌になる。ドロドロの感情と何かが追いかけて来るようで、面倒で、鬱陶しくて、だからいつもの”お決まりコース”を実行して、そしたら何となく自分の中の嫌なモノはなかったことにできた気がする。・・・・でも、また何かのきっかけで、あの黒い、出口がないような、おんなじドロドロが、頼んでないのに勝手に浮き上がってはまた同じ。

この”お決まりコース”。皆さんはどんなコースが定番ですか。

やけ食いに走る人、買い物に走る人、アルコール、タバコ、ギャンブルや、YoutubeやNetflix、友達や家族を捕まえての愚痴り大会。他にもきっとありますね。 これらは手段は違えど、きっと、どれもあんまりいい後味ではないことは同じなのでしょう。 この”お決まりコース”って、全部が悪いことなわけじゃない。だって、そうやって凌いできた場面がたくさんあるし、その時々には必要だったのでしょう。

でも、全く苦しくなかったか?100%スッキリしたのか?と聞かれて、ハイ、と言ったら嘘になる。例えばやけ食いしてる時、やけ酒に溺れてる時、自分でもびっくりするような言葉を誰かに吐き出してる時、誰かに八つ当たりしまくってる時。実は、ほんのちょびっと、心のどこかでチクっと痛かったことも本当の話。
多分、苦しいんです。すごく苦しいですよね。気付きたくなかった感情や思考に、気がついてしまって、もう逃げ場がないような気がして、どうしようもなくて。目を背けたいから"お決まりコース"に走ったけれど、本当は直視できていない自分のことも、自分で分かってるからこそ苦しい。ダメだって分かってる。イケてないな〜こんな自分って、言われなくても分かってる。

私の瞑想journeyの中でも、自分の中の前述のbelief(観念)に出会ったことがありました。 瞑想って、とても地味で、味気ないpracticeで、全然面白味もないし、スッキリもしないことも多いんです。とことん地味なこの瞑想journeyは、初めはSilence(沈黙)が慣れなくて困惑する段階があるものの、本当に静かになった時に初めて聞こえる自分の声や思考があるものです。
聞こうと思って探しても、気がつこうと思って見渡しても、全然出てきてはくれないのに、ただ静けさに浸った時、自ずと浮かび上がるもの。そうやって探そうとするその力み(りきみ)さえ、全部手放して、ただ内側の静けさに浸りきった時、初めて気が付ける自分の思考の声があります。

そうやって、自分の中に「毎日を美しく生きないといけない」と思ってた思考があったことにハッと気づいた時は、やはりちょっとびっくりしたものです。と同時に、ほっと安心もしたのをよく覚えています。そう、この安心感こそが、自分自身が自由になってゆく感覚ととてもよく似ているのです。

瞑想とは、ヨーガとは。そんな風に自分自身を勝手に苦しくしている色んなbelief(観念)やあらゆる思考の癖から、自分を自由にしてゆくプロセスそのもの。
It’s freeing. The whole process is freeing, yet purely healing. ただただ、自由なはず。過程も含めて、全て、もっと自由で、そしてひたすらに癒されるもの。だからこそ、厳しさはちっとも要らないはず。必要なのは、自分に対して向ける、100万%の優しい目だけ。

一体どれだけ私たちは、この100万%の優しい目を自分に向けることができるのでしょう。 

そう、この、理想としてた、完璧の自分には程遠い、生々しい、全部全部まだ途中で、中途半端な、ありのままの自分に。
絶対あんな風にはならない!と思ってた人に、気がつけばそっくりになっていたこの自分にも。もう同じ間違いはしない!と決めたはずなのに、また同じことを繰り返してる自分にも。色んな人の助けを借りて、やっとここまできた意志が、根性が、根気が、強さが、頑張りが、思いが足りなくて、ダメダメだと思ってるその今の自分にも、昔の自分にも。

「どんな自分も認めましょう」と、巷でよく聞くフレーズとは少し意味が違う気がします。これって、個人的に苦手なフレーズなんです。「どんな自分も認めましょう」って、なんだか、優しくて良いバージョンの私が、優しくなれなくてドロドロしてる自分とか、思った通りにできないダメダメな自分を、ちょっと上から認可してあげるわよ、みたいなニュアンスがして。あと、まずはどんな自分も認めましょうなんて言われたって、認められないからこんなに困ってんじゃん!!と、心の中ですぐ突っ込んでしまうから。笑

自分に向ける100万%の優しい目とは、そんな、認める認めない・許せる許せない・オッケー・NG!とかいった、あらゆる物差しをもっと超越した場所にある、絶対的な優しい目のこと。好きになれない自分の部分、性格、思考、belief(観念)、過去の記憶も。それに気づいた時、それを見た時、好き嫌いでジャッジすることなく。認める認めないでジャッジすることなく。でもそれでもやっぱり、何でもすぐジャッジしては取り締まりたがる、control freakな自分さえをも、これまた優しさ100万%で包める、そんな優しい目。

完璧な自分と、そうじゃない自分の距離を測っては、落ち込む自分自身も。毎日を美しく、綺麗に生きなきゃ!と思っては、上手くいかなくて、"お決まりコース"に逃げ走ってる自分も。どんな自分にも、この100万%の優しい目を向けることができますか。

えぇ、それって甘えじゃない!?そんなのダメじゃない!?・・・と言いたくなりますか。もしそうであれば、「自分には厳しくいないといけない、甘えてたら成功しないんだから」という思考があるのかもしれません。その思考、持ちたくて持っているのならそれが大正解。だけどもし、気付かぬうちに握りしめてたものなら、もしかすると、自分をもっと自由にするタイミングに来ているのかも。例えばヨーガや瞑想は、その道のりそのものです。そしてもちろん、ヨーガや瞑想である必要も全くありません。どんな道のりでもいいけれど、ぜひもう一度、自分が自分をちょっと苦しくしているかもしれない、"今"の自分のマインドの声や思考に、気がついてあげて欲しいなと思います。

もしも、あなたが今、例えば【完璧な自分】のゴーストに取り憑かれててしんどいのであれば。あるいは、【毎日を美しく、綺麗に生きなければいけない】という観念がしんどいと感じているのであれば。まずはその自分自身へ、絶対的な優しい目を向けることを始めてみて。ちょっとの優しさじゃなくて、100万%の優しい目を。  ・・・そんなのどうするの?と、自分への優しさの向け方すら忘れてしまっていたら、、。 まずは息をして。長い、深呼吸を繰り返して。ゆっくりと。長い息ができるまで、焦らずに、必要なだけ時間をかけて。そして思い出してほしいと思います。そもそも、【綺麗】に生きるのが人生の目的ではないということ。【完璧な自分】になるために、今ここに在るわけでもないかもしれないこと。完璧な、綺麗な、美しい自分の人生で以て、誰かに納得してもらうために存在しているわけでもないのかもしれないこと。今の自分が、不正解なわけでも、間違ってるわけでもないのかもしれない、と。自分自身の存在の価値は、得ようとしなくたって、もともともう在るものなのかもしれないことに。


私たちはいつから、なんとなく、”綺麗に"生きなきゃいけないって思うようになったのでしょう。誰が決めたんでしょう。完璧な人なんて、一体どこに存在してるのでしょう。

みんな、誰かに傷つけられては、自分も誰かを傷つけ続けていて。本当は伝えたいことがあって、言えずに終わってしまった人がいて。頑張ればまだ会える人なのに、まだ伝えられていない言葉があって。本当は許したい相手がいて、だけど絶対許したくなんてないともまだ思ってる。できるだけ怒りたくなくて、でも怒ってばかりで、やっぱり反省するのに、どうしても怒りをぶつけたくなる日だってある。気にしてないって言いながらも、すごい気にしている自分もいて。どうでもいいって思ってるのも本当なのに、どうでも良くないって思ってるのも本当で。

瞑想を続けていると、人の心ってそんなに簡単に、綺麗にシンプルに形容できるほど、ちっぽけではないことを学びます。分かりやすい、明るい色だけじゃなくて、なんとも言葉で説明し難いような、ニュアンスカラーが幾千にもある。もともとそんな、何色でも持っている豊かな存在なのに、よその誰かの決めた"綺麗"な、”完璧"な色だけに揃えようとすること自体、ナンセンスだとは思いませんか。


この本の中で書かれてる、モナ・リサの例を使った、”人生はキツくて素晴らしい”という表現が大好きです。

人の目をなぜか惹きつけてやまない、あの不思議な絵のモナ・リサ。モデルの女性は、赤ちゃんを授かったばかりで、幸せの絶頂にいるのですが、実はその直前に流産を経験したばかり。ダヴィンチが彼女を描いてる時に、もっと笑って、って言っても、満面の笑みは決して見せなかった彼女。生まれてくる新しい命に幸せいっぱいの幸福感と、失った、会いたかった命への悲しみが、どちらか一方なのではなくて、両方一緒に存在している様子が表情に表れているのだ、と。だからこそ、どうしようもなく人の心を魅了してしまうんだ、と。

絵を描くから、新しい命が生まれてくるから、さぁ笑って!と言われたって、自分の”今"の全てをちゃんと認識されたかった。誰かに喜んでもらうために、誰かに認めてもらうために、誰かのために、自分の”今"の一部だけ、綺麗なところだけを切り取って、絵に残されるのがイヤで。だって、幸せに溢れてる綺麗な部分も、悲しみと寂しさに溢れてる暗い部分も、両方とも"今"の正直な、リアルな、正真正銘の私だから、と。

“You will see my life's brutal and beautiful here on my face. The world will not be able to stop staring.“ (私の顔の中に、キツくて素晴らしい人生が見えるでしょう。世界中の人は、そんな私の顔から目が離せなくなる) - by Glennon Dolye

私もまだまだ、こうやって自分をより自由に、より自然な自分にしてゆく、マインドフルネスのjourneyの途中。ふと気がついたら、ヨガや瞑想を教える先生に(いつの間にか)なっていましたが、現役・絶賛・バリバリの生徒でもある私。きっと一生そうなのでしょう。 本が大好きで、親族からのあだ名は"book worm"(本の虫)な私。本を読んでるとこうして、色んな人の頭の中や世界に出会っては、「みんなおんなじだよね〜。」と感じられるのが好きだからなのかもしれません。


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