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【読書感想】『正欲』読みました。

このページをご覧いただき、ありがとうございます。
読書の秋を楽しんでいる、黒木りりあです。

読書の日から始まった読書週間が続いていますが、皆さんは何か新しい読了本が増えましたか?私は読書週間が始まる前に読み始めた本をまだ読了できていないのですが…焦らず、じっくり向き合おうと思います。

先日、朝井リョウ先生の『正欲』を読了いたしました。映画化のニュースで気になり、文庫化してすぐに購入したのですがなかなか読み進められておらず、読み始めるまでに時間がかかってしまったのですが、読み始めると一気に読了できてしまいました。
キャッチコピーに「これは共感を呼ぶ傑作か?目を背けたくなる問題作か?」というフレーズがありますが、私にとっては間違いなく前者でした。ただ、後者のように感じる人も少なからずいらっしゃるんだろうな、とも感じています。


『正欲』とは

『正欲』は、2021年に新潮社より出版された朝井リョウによる長編書下ろし小説です。朝井リョウ氏の作家生活10周年を記念して執筆されました。
今年の5月に待望の文庫版が発売され、累計発行部数は40万部を超えています。本作を原作とした映画が今年11月10日に公開されることでも話題となっています。

『正欲』あらすじ

横浜で検事として日々任務をこなす寺井啓喜は、息子の泰希が小学校に行かず不登校になったことに気を揉んでいる。不登校YouTuberに影響を受けて自分もYouTuberになりたいと考える泰希。息子を早く社会の通常ルートに戻さなければと思うのに、どうにもうまく行かない。

広島の寝具売り場で販売員として働く桐生夏月は、積極的に人と関わろうとしない。なのに人々は夏月のもとにやって来ては好き勝手に知りたくもない話を語っていく。夏月が胸の奥に仕舞う秘め事は、誰も知らないし誰にも知って欲しくなかった。例外は、中学生の時の校舎裏での彼とのひとときだ。

食品メーカーに勤務する佐々木佳道は、中学の頃に広島から関東へと引っ越した。彼もまたある秘め事を抱えていて、誰にもその話をしたことがない。けれども、広島から転校する直前、校舎の裏で顔を合わせた夏月とのひとときは例外かもしれない。

金沢八景大学に通う神戸八重子は、人の容姿に優劣をつけるようなミス・ミスターコンテストを廃止し、ダイバーシティフェスを企画する。兄の影響で異性の目を不快に感じるようになった彼女だったが、ある一人の男性だけは彼女の瞳に例外として映った。

同じく金沢八景大学に通う諸橋大也は、八重子が彼に向ける視線や注意を不快に感じている。胸の奥にひた隠しにする秘め事を覗き見ようとしたり、勝手に推測しようとしたりする周囲に、辟易としていた。

令和の時代、ある事件をきっかけに彼らの人生は思いもよらない形で交差していく。

「正しい欲」って、何?(以下ネタバレあり)

少し前にXでも簡単に書かせていただいたのですが、本当に読みながら言葉やテーマが心にズッシリと刺さりまくる作品でした。心に、頭に、人生に、ドシン、と重みが加わる感覚を覚えました。
この作品のことを誰かに話したい。誰かに広めたい。そう思っても、どんな言葉を使えば良いのか、どんな調子で話せば良いのか、分からなくなってしまう。そんな作品だと思います。

作品のテーマとなっているのは「多様性」。多様性という考え方も、言葉も、大切だと思っているし、世の中は多様であって欲しいと思うのでその概念も、私はしばしば用います。
でも、多様性という言葉はなんだか好かないな、と感じることも少なくありません。「多様性って大事だよね」と堂々言う人が考える「多様」って、あんまり多様じゃないよね、と思うことが度々あったからです。人が想像できる多様って、限界があるよな、と思っています。だから、「多様性」という言葉に限界を感じてしまって、あまり好きな言葉じゃないな、と思うことがありました。
とはいえ、「多様性」という言葉でしか表現できない場面も多々あるので、つい使ってしまうのですが…。個人的には、インクルーシヴ(inclusive)とかインクルージョン(inclusion)という言葉の方が好きだし、自分のなかでの収まりが良いように感じています。

『正欲』はそんな「多様性」という言葉の限界を突き付けられた作品だと、読んだ時に感じました。
「多様性」という言葉を使った時、夏月や佳道、大也のような「水フェチ」の人々は、少なくとも私の想像の範囲にはいませんでした。物心ついた時からインターネットに触れている世代としては、自分が想像したことのないようなタイプの人が居らっしゃることは知っていたので、私の狭い想像の範囲を越えたところに人々が居ることは想像できていましたが、具体像としては想像できていませんでした。

でも、水フェチなんて人に危害を加えている訳じゃないし、別に問題ないじゃない。隠す必要ないじゃない。そんな風にも思ってしまいました。でもその考えもまた、マジョリティ側に立ってる人間の考え方になってしまうんですよね、きっと。
欲求の対象が人間じゃなくて水。それはいいじゃない。なら、欲求の対象が暴力だったら?殺人だったら?殺戮だったら?それらは犯罪行為だから問答無用で正しくないこと?

例えば、建物の崩壊フェチ、という人がいたら?自分で建物を崩壊させるわけではなく、ただ崩壊していく建物を眺めることに欲を持つ人はどう?誰にも迷惑をかけていないならセーフ?崩壊していく建物に人が残っているのに救助活動に参加しなかったら倫理的に良くないからアウト?こんな風に想像の範囲内で、法の範囲内で啓喜のように量刑を考えることが駄目?何が正しい欲で、何が正しくない欲?そもそも「正しい欲」って何?

考え始めるとグルグル、思考を巡らせてしまいます。おそらく、永遠に終わりに辿り着けないループです。
不意に思い出したのは、高校時代の倫理の先生の問いでした。「お酒と醤油の違いは?どちらも接種しすぎると身体に毒だけれども、片方は明確な制限があり、もう片方にはない。なぜか?」という彼の問いは、『正欲』を読んで浮かんだ問いに近いものがあるような気がしました。

そんな、考え始めたら問いの終わりの見えなさ加減に絶望してしまいそうな本作の希望のような役割を果たしているのが、夏月と佳道の関係ではないかと思いました。

当人以外では想像すらできないほどの絶望を味わってきた二人。だからこそ、分かり合える二人。二人の間には恋愛感情も性欲もない。それでも、死なないために、生きるために、お互いの存在が必要で、お互いに寄り添い合っている。これこそ、究極の愛ではないのか、と感じました。プラトニックな、尊くて美しい、愛のかたち。お互いがお互いに伝えたい「いなくならないから」は、究極の愛の言葉に思えました。

けれども、そんな風に理解し合える、共感し合える相手に巡り合える確率って、すごく低いんですよね、きっと。そこに性欲があろうがなかろうが、たぶん同じことで。完全に理解できなくても、完全に想いを共有できなくても、お互いに少しでも理解したい気持ちを持ち合っていたり、寄り添いたい気持ちがあれば、一緒にいられるかもしれない。けれども、それを拒絶して一人になるのも簡単で、一人になればなるほど苦しくなる。大也と八重子みたいに。希望だけでは終わらないのがまた難しく、グルグルと考えさせられる作品です。

そして、正しくあろうとするばかりに正しい道から外れてしまった啓喜。何かを察しながら、正しい道だと信じる道で歩みを進めていく八重子で締め括られる本作。深いし、難しい。様々な言葉が、状況が、考えが、胸に本当にグサリグサリと突き刺さりました。

ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
また、機会があれば他の記事にも足を運んでいただけますと幸いです。

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