祖父の死の経験と手仕事について。
liloの古谷です
年末に祖父が亡くなりました。
チームのみんなには無理を言って最期の時間を一緒に過ごすことができたのですが、その時に感じたことを書き連ねたいと思います。チームのみんなには最期の時間を過ごす機会を作ってくれて感謝しかありません。。。
祖父について。
私の祖父は昭和中期ごろに大手家電メーカーの下請けの工場を立ち上げ、順調に業績を伸ばしていました。その矢先、オイルショックの影響を受け業態を転換。地元信楽町の名産品、信楽焼の卸商社を始めました。
話を聞いていると、立ち上げたての頃は妻である祖母と一緒にトラックに山盛りの陶器を積み込み、九州から東北まで、様々な場所で催事を行い陶器を売り歩いたそうです。そして徐々に事業を展開し、信楽にお店を構えたのです。
強いバイタリティで様々な困難を乗り越えてきた祖父は口癖のように”何くそと思って負けずに頑張れ”と口癖のように言っていました。歩けなくなっても、病院に入院してもなお、まだ仕事ができる、仕事がしたいとしきりに話すほど、仕事に生きた人でした。
そんな祖父でしたが93歳を迎え体力が衰え、ついに危篤状態になってしまいました。
知らせを聞いて病院に駆けつけると、手足が冷たくなり、目も開かない祖父の姿がありました。しかし、確かに息をして生きていました。その様子は”生きている”のではなく”生きようとしている”ように見えました。心臓を自分の気力で動かしているようでした。普段無意識に呼吸をして生きているこの行為がどれほど尊いものなのか、心にずしっとくる姿でした。
呼びかけにはもう反応できない祖父でしたが、私が声をかけると心拍数と血圧が上昇し、とにかく1秒でも長く生きようと懸命に戦っている祖父の姿は本当に格好良いものでした。
作家の開高健さんが敗戦後の日本の街を語っているインタビューの中で、餓死者の話をしていました。道端で餓死してしまった人たちを見て、自分の中の心の拠り所や気力の源となるものを失ってしまった瞬間に人は亡くなってしまうんだなと感じたと話しています。
祖父が危篤状態に陥って、親族や生前交流のあった人たちが続々と病院に駆けつけていたのですが、最後の人が病院に駆けつけるまで、実に74時間も危篤状態の中戦い続けたのです。しっかりとみんなに会った後、祖父は息を引き取りました。
祖父の心の中で、最後にみんなに会いたいという心の拠り所を強く持っていたんだなと感じると同時にその心の強さに驚きました。
本当に最後までたくさんのことを学ばせてくれた生き様だったなと今振り返って思います。
この経験を手仕事に対して活かす。
私がこの経験をどのようにして日本に残っている手仕事に活かせるか、伝えられるか、まだふんわりとしか掴めていないのですが、手仕事の技術も人間や動物と同じ生き物だと私は考えています。
人の手から手へ、自然と流れて形を変えつつも確かにその手の中にある技術はさながら生き物のように感じられる時があります。その技術にも確かに生への執着があると強く思います。その生への執着をリスペクトを持って汲み取り、世の中に訴えかけ続ける役は私だと感じています。
手仕事の技術は恐ろしいほど急速に死に、失われていっているからこそ、見ていることしかできない今の自分に対して歯痒さも感じますが、とにかく実直に一つ一つ、伝え続けることが大事だなと思います。
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