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柳田國男生家から見る日本人の感性

半年ほど前。
兵庫県は神崎郡にある柳田國男の生家を訪れた際に感じたことを、ここ最近反芻して考えることが多くあります。
柳田國男とは、日本民俗学の祖であり”日本人とは何か”という問いを追い求め続けた学者で私の大好きな人物なのですが、その生家は日本人的な感覚の痕跡が色濃く残る魅力的な場所でした。
そんな体験から、日本人の感性とはどの様なものだったのか考察を進めていきたいと思います。

柳田國男生家について。

柳田國男生家がある神崎郡についてざっくりとさらいながら柳田國男生家の特色に触れていきます。

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引用:https://www.google.co.jp

兵庫県南西部に位置し、姫路城で有名な姫路市の近くに神崎郡は位置しています。
主な特産品として、スーパーフードとして最近注目されているもち麦があり、古くよりこの地で栽培が行われていました。
自然がたくさんでのどかな田舎町といった印象の神崎郡ですが、歴史を見てみると意外な側面が見え、彼を民俗学へ突き動かした原体験が見えてきます。

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柳田國男生家から程近くにある鈴の森神社へ向かう道です。彼も幼少期にはよくここで遊んでいたそうです。これは大興奮ですよ。

今からおよそ1400年前の飛鳥時代。この土地には複数の里が存在していました。それぞれの里が特色をもっており、その中には天皇の領有地や先進技術を持った渡来人が住む里など、非常にバラエティに富んだ人々がこの地域に住んでいました。
そして、地理上での交通の要所としての側面もあり、陸路のみならず、兵庫県中部の三国山から姫路湾に流れ込む市川が郡内を流れています。上流部には日本有数の銀山”生野銀山”があり江戸時代には産出される銀を姫路湾へ輸送する重要な河川でもありました。

このように、ビッグヒストリー的に捉えてみると、様々な人々が集まり、そして人の流れが活発な神崎郡が浮かび上がってきます。

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引用:http://www.town.tone.ibaraki.jp/page/page004197.html 

そんな土地で儒学者であり医者の父のもとで8人兄弟として生まれた國男は自身が”日本で一番小さい家”と称する一軒の家で育ちます。
実際に足を踏み入れてみると、7畳半ほどの非常にこじんまりとした日本家屋で、ここに10人近くが住んでいたとは想像できないようなものでした。実際に國男の兄の妻はその狭さゆえに逃げ帰ってしまいます。

そんな小さな家に生まれた國男ですが、「この家の小ささという運命から私の民俗学の志も源を発したといってよいのである。」と発言する程、彼を民俗学の確立へ突き動かす大きな原体験をこの小さな家は与えたのでした。

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柳田國男生家です。茅葺の屋根と土壁がいい雰囲気でした。

日々たくさんの人々が行き交う中で、様々な感性に触れながら、なおかつ非常に小さな家でいわば常に誰かとの関わりの中で育った國男は自然と”日本人とは何か”という問いを抱いたのではないかと私は推測しています。

彼の研究スタイルは当時の主要な研究スタイルと異なり実地調査を重要視しています。史実や文献上のみで考察を進めるのではなく、実際に現地に足を運びリアルな声を拾い上げていきました。この研究方法はやはり、様々な人が行き交う町で生まれ、常に変化する生の声に触れて育った國男のバックボーンがあるからではないかということも、この推測に至った理由の一つでもあります。


柳田國男について語り始めると止まらなくなってしまうので、彼の人生に大きな影響を与えた小さな生家はこのようなものだったというご紹介でこの章を閉じたいと思います。

そんな柳田國男生家から感じる日本的な感性。

前章では柳田國男を民俗学へ向かわせた生家と神崎郡の歴史についてなぞっていきましたが、それを踏まえて私が柳田國男生家を訪れた際に感じたことなどを書いていきたいと思います。

駐車場に車を止めて歩いていくと、昔ながらの今ではなかなかみることができない、茅葺の分厚い屋根の乗った拍子抜けする程小さな家がありました。

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引用:https://www.limonbus.com/tabitabi/hyogo/tourism/1142/

実際に中に入ってみると7畳半ほどの一間があり、田の字型に障子で隔てることができる作りになっています。いかにも日本家屋といった薄暗く静かな室内の印象で、どこか落ち着くような空気感が漂っていました。
土間に炊事場や納屋がコンパクトに収められていて、粘土を固めただけのような、さながら地面から勝手に生えてきたかのような作りのかまどがとても印象的でした。土間が土壁で覆われているためより一層そのように感じたのかもしれません。

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柳田國男生家のかまどです、いい感じです。


もう一つ印象に残っているのが、家の”内”と”外”を分ける玄関や縁側が非常に簡素な点です。現代の家の感覚からすると家の内と外の境界線が存在していないかのような作りになっていて、日本人の古来のライフスタイルをまさに体現したような家でした。

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玄関部分には扉を取り付ける意匠があるものの、とても簡単な作りのものでした。

日本家屋の特徴として、まず柱を立て、その間に壁を作るというものがあります。これは主に木材を建材として利用していたためでもあると思うのですが、西洋の建物は対照に下から石や木を積み上げるような形で建築していきます。

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引用:https://tripnote.jp/fukusaki-cho/place-kanzaki-county-history-and-folklore-shiryokan 

柳田國男生家の近くにある福崎郡歴史民俗資料館です。こちらは明治19年に建てられた洋風建築で見比べてみると、木材を横に積み上げて造られているのがわかります。

これによりどうなるかというと、日本の建物は壁を自由に動かすことができます。つまり、障子や雨戸などによって外から入ってくる光をコントロールできるのです。これが西洋の建築方法になると、下から積み上げていくため一旦作った壁は動かすことができません。そのため光を最大限集めるための工夫がなされます。
境界線という役割としての壁という点に注目して両者を比較してみると、可動式であることが前提の日本の壁は境界線という意味合いが西洋に比べて薄いのかなと想像できます。
そして、障子という存在により、”光が微妙に入ってくる”という状態を作り出すことができます。この”境界線が存在しない曖昧さ”こそが日本的な感性の原点であると私は考えています。

ひとつ例をとってみると、霊的なものに関してもやはり日本と西洋でこの違いを確認することができます。

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引用:https://ameblo.jp/jpwwblog/entry-12058704957.html


日本の幽霊画はお岩さんにような足がなく、闇に同化しているように描かれています。

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引用https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%91%E3%81%8C%E5%AD%90%E3%82%92%E9%A3%9F%E3%82%89%E3%81%86%E3%82%B5%E3%83%88%E3%82%A5%E3%83%AB%E3%83%8C%E3%82%B9


しかし西洋の同時期に描かれた絵画をみると空間からはっきりと浮かび上がり、表情もとてもくっきりと描かれています。出現する時間を比較してみても、江戸時代以前は夕暮れ時に幽霊が現れるとされているのに対し、西洋では真夜中であることが多くなっています。


そして、その感覚を持って生家のかまどの作りを改めて見つめ直してみると、地面から生えてきたような作りを見る限り、やはり自然と道具の関係性においても境界線が曖昧になっていることに気がつきます。

その他、お歯黒や能など、古来のスタイルを探っていくとこの境界線が存在せず、自分の認知できるところとできないところのギリギリの部分を美しいと捉える日本人の美的感性を感じることができます。いわゆる”幽玄”と呼ばれる世界ですね。


幽玄の世界は現代日本ではどうなっているのか。

つらつらと勝手なことを書き連ねてきましたが、そんな曖昧さを美しいとする古来の日本的感覚が現代においてどうなっているのか、考察していきたいと思います。

今からざっと140年前の明治時代。列強諸国がアジアへの侵攻を進めていく中で危機感を覚えた政府は、長く続いた鎖国の影響でガラパゴス化していた日本の文化を西洋風に変え、強国に見せることで対抗していきました。文明開化と呼ばれるものですね。

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引用https://www.library.metro.tokyo.lg.jp/portals/0/edo/tokyo_library/bunmeikaika/page3-1

非常に強い力をもってして推し進められたこの動きは、日本古来の風習や道具などを”ダメなもの”と捉える機運を生みました。
今まで、長い時間をかけて出来上がってきた日本人的な感性が西洋的な文化と迎合し徐々に変化をしていきました。


日本の古典芸能のうちの一つである能を例にとってみると、江戸時代付近の能は真っ暗な中蝋燭の小さなあかりの中で行われていました。今の様に舞台全体が明かりで照らされておらず、役者をわずかな光が照らすのみだったようです。
舞台の上で、能面をつけ闇に紛れながら舞う役者を想像すると、非常に緊張感あふれる迫力に圧倒されるんだろうなと想像できます。いやあ、一度でいいから見てみたいですよね。

芸能ひとつを取っても大きく変化していったわけですが、思考方法についてはどのようになっているのでしょうか。私の考察を進めたいと思います。

特に国際的な対人関係において”日本人は自分の意見を言わない。”とよく言われていますが、私がサンフランシスコに行った際にそれをとても強く感じました。”あなたはこの問題についてどっちだと思う?”という様に、選択肢があらかじめ与えられるような会話が多かったのです。つまり、”0か100か、あなたはどっち?”という会話の方法をとっていたのです。重要な意思決定の場においてそのスタイルは非常に有効ですし、よりパーソナリティーの輪郭が強調されることが想像できますね。

しかし、私は日常的な会話においては、”0か100か”といった会話方法もいいですが、”0から100までのうち35のニュアンスを伝える感覚”で話を楽しみたいなと思います。
”0か100か”というものは極端同士の会話な訳ですから、とても迫力があり、白熱した会話のシーンを想像しますね。オーケストラを聴いている様な圧倒される感覚を覚えます。
それもいいのですが、私は”35のニュアンス”が美しいなと思いますし、そういった話し方をする人にとても魅力を感じます。なぜなら、その相反する二つの意見の間に境界線が存在せず、そこには幽玄の世界が広がっているように見えるためです。

その幽玄の世界を”歯切れが悪いな。”と切り捨てるのではなく、耳を傾け理解しようとすることで、日本人が古来より大切にしてきた美しい感性に触れることができると私は考えています。

そんな話ができるような男になりたいなあと思った休日でした。



私がデザインを担当しているliloはそんな日本人的な感覚を大切にしている道具ブランドです。
派手さはありませんが、日常生活の中で末永く愛される道具を目指して職人の手によってひとつひとつ作り上げています。


よかったら、下記のリンクよりHPをご覧ください。


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