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第167回芥川賞受賞作『おいしいごはんが食べられますように』徹底解説②

 前回の続きです。(前回の記事はこちら ↓ )

視点チェンジ(押尾→二谷)

 押尾がなぜ芦川さんを苦手だと思うようになったのか、二谷は自分なりに想像します。

 二谷はそうだった。入社は二谷の方が芦川さんより一年早く、入社から六年間は東北の支店にいた。三か月前に埼玉に転勤してきて、ここでの仕事は芦川さんから教わる形で引き継ぐことになっていた。けれど、転勤してきて二週間もする頃にはもう思っていた。この人は追い抜ける、時間もかからず、すぐに、簡単に。そう感じた人を尊敬するのは難しい。尊敬がちょっとでもないと、好きで一緒にいようと決めた人たちではない職場の人間に、単純な好意を持ち続けられはしない。

本文(P.19)

 二谷は自分の経験から、押尾も自分と同じように芦川さんを尊敬できなくなったのだろうと考えます。(押尾は芦川さんの一年後輩で、芦川さんが指導役の先輩でした)
 ここで明らかになるのは、二谷のすこし偏った価値観です。
 引用部分の最後の三行、
「尊敬がちょっとでもないと、好きで一緒にいようと決めた人たちではない職場の人間に、単純な好意を持ち続けられはしない。」
 とは、どういうことでしょうか。
 人付き合いにおいて、相手を尊敬できるかどうかは重要だと思います。しかし、尊敬するポイントが一つもない人間なんているでしょうか? 特に芦川さんのような人は、仕事はできなくても、尊敬できるポイントはありそうなものです。
 おそらく二谷の中で「尊敬できる人=仕事ができる人」という図式があるのではないでしょうか。だから芦川さんのことも、尊敬できなくなったのではないか、とわたしは考えました。

 そのあと、芦川さんのお仕事やらかしエピソードが語られます。
 そのなかで、「芦川さんは前の職場でハラスメントを受けていた」という事実が語られます。すると、それを聞いた二谷の中である変化が起こります。

 洗わないで放置した鍋の中の濁った水みたいな胸の内に、毅然が足りない、という言葉が浮かんできた時、二谷は芦川さんを尊敬するのを諦めた。諦めると、自慰の手助けに彼女のことを想像するのも平気になった。それは不思議なことで、なんとなくかわいいと思っていた時よりも、彼女の弱いところにばかりに目がいくようになった後の方が、想像の中の彼女は色気を放った。聞いたことのないはずの種類の声で、彼女はいつも泣いている。彼女が泣けば泣くほどよかった。

本文(P.20~21)

 二谷のサディスティックな一面が垣間見える場面です。
 芦川さんへの尊敬を失った途端、性欲を満たすためのアイテムとして、彼女を想像の中で用います。それも、かなりサディスティックな想像をしているようです。
 ただ、想像するのは個人の自由です。
 逆にこの引用箇所を読んで、「二谷は危険な男だ!」と判断するのは尚早だと思います。温厚な男性が、過激なジャンルのアダルトビデオを見ているというのは、よくあることです。むしろ想像の中で、自分の性的嗜好の過激な部分を処理しているから、実生活ではセーブできている。そういうパターンもあります。

 ここで、二谷が転勤してきた翌日の歓迎会のときのエピソードがさしこまれます。パートの原田さんから「彼女いるの?」と聞かれて、「ひ孫が見たい」という祖母の口癖を思い出します。

 自分はいつか結婚するんだろう、と二谷は思っている。結婚がしたいわけではなくて、結婚したくないと思ったことがないからだった。世の中には一生結婚しないと決めている人もいるけれど、そういうのは確固たる意志がある人だけが決意するものであって、特に何の希望もない自分のような者は、いつか結婚しなければ辻褄が合わない。ならば、喜んでくれる人が多いうちにしてしまうのがいいんだろう。そんなふうに考えていた。
 だから芦川さんが泣いた時に、自分から手を伸ばした。

本文(P.22~23)

 二谷が語る結婚観をみると、おそらく二谷は女性にモテるタイプの男性であることがわかります。
 残念ながら、わたしは女性にモテるタイプの男性ではないので、結婚したいなら主体的に行動して相手を見つけなければなりません。女性のほうから寄ってくる、ということがないからです(自分で書いていて悲しいです)。
 しかし、二谷は漠然と「いつか結婚すんだろうな~」と思っています。これは主体的に行動しなくても、女性のほうから寄ってくるタイプの男性の考え方です。モテない男は「結婚したい」という強い意志と行動力が必要です(結婚したいのであればの話)。
 そしてもう一つ、この場面で考えなければならないのが、引用箇所の最後の一行の、「だから」という接続詞の使い方です。

 「だから」は順接の接続詞です。
 前に理由・根拠となる文があって、後ろに結果・結論が書かれている場合に用いられる接続詞です。
  前:特に希望はないけど、結婚したほうがいいんだろうな~(意訳)
  後:芦川さんが泣いた時に、自分から手を伸ばした
 このふたつに、理由と結果の関係が成り立っているかどうか。
 一応、成り立ってはいると思います。が、芦川さんである必要性は感じられません。
 そもそも二谷は結婚がしたいわけではありません。周囲(主に祖母)のために結婚したほうがよさそうだ、と思っているだけです。そこに芦川さんという、性的な興奮をもたらしてくれる女性が現れたから手を出してみた。という感じではないでしょうか。

 二谷は芦川さんとデートを重ねます。
 最初は映画からのレストラン。二回目はシュラスコを食べに行き、三回目は居酒屋。
 おそらくですが、三回目に行った居酒屋は、前回の記事①で解説した押尾視点のときと同じ居酒屋ではないかと思います。社外研修の帰りに寄ったあの店です。
 自宅の近くで週に何度か行っていて、注文するものも押尾のときと同じです。
 二谷がいつも注文するメニュー(ビール、枝豆、焼き魚、だし巻き、味噌汁)を言うと、芦川さんに「ほんとうに、晩ごはんだ」と軽くディスられます。(芦川さんに悪気はなかったと思いますが……)

 芦川さんは何がおかしいのか面白そうに笑っている。二谷も笑い返すが、内心少しだけ苛立つ。芦川さんのように実家暮らしで、お母さんがごはんを作って待ってくれているわけじゃないんでね、という言葉が腹の中で喉に向かうわけにもいかずとぐろを巻き、飲み干したビールで洗われてそのまま溶ける。

本文(P.25)

 二谷は、ビールと苛立ちを ”飲み込む” わけです。”飲み込む” という行為が、ただ食事の描写だけで終わらず、心理描写にもなっているというのが素晴らしいです。
 また前回の記事(①)で、「二谷は食事に興味がないのではないか?」という旨のことを書きましたが、この場面を読むと、どうやらそういうわけでもないようです。
 ほんとうに食事に興味がない人間は、「芦川さんのように実家暮らしで、お母さんがごはんを作って待ってくれているわけじゃないんでね」なんて思わないはずです。
 ひょっとすると二谷は、「だれにもごはんを作ってもらえない」という事実にコンプレックスを抱いているのではないでしょうか。


 芦川さんは「このだしまき、すごくおいしい」と言います。
 二谷にではありません。店主にです。芦川さんの過剰適応が発動しています。
 さらに、二谷がお会計をしているとき、店員さんが「さっき彼女さんがわざわざ厨房の方に全部おいしいですって声をかけてくれましたよ」と言ってきます。
 名前も知らない居酒屋の店員に対して、わざわざ厨房をのぞいてまで「おいしかった」と伝えるとなると、かなり深刻な過剰適応に陥っているのではないかと考えられます。

また、自炊をすすめてくる芦川さんに対して、このような思いを抱きます。

 しねえよ、と振りかぶって殴りつけるような速さで思う。
(中略)
この人に、ぐつぐつ煮えていく鍋を見つめている間、おれはどんどんすり減っていく感じがしますよ、と言っても伝わらないんだろうと思うと、顎に力が入らなくなる。咀嚼するのが面倒くさい。芦川さんみたいな人たちは、手軽に簡単、時短レシピ、という言葉を並べながら、でも、食に向き合う時間は強要してくる。
 そんなことより、今日はセックスをするんだろうな、と考える。

本文(P.27)

 わたしが読んでいて思ったのは、「なぜ二谷はこんなにも食のことで苛立つんだろう?」ということです。
 前述のとおり、二谷は食に対してある種のコンプレックスを抱いているのではないかと考えられます。冒頭の藤さんのお弁当を見て抱く思いや、芦川さんの発言に対する反応からも、その様子がうかがえます。
 そう考えると(P.5)の「カップ麺でいいのだ」発言は、自分に言い聞かせているだけではないか、と推測できます。

 もっと深読みすると、二谷は大きな虚無感を抱えているのかもしれません。
 よく考えてみると、二谷はなにが好きなのでしょうか。なにが趣味かもわからないし、なにをしている時が楽しいのかもわからない。なにかをしたいという希望も、まだ一度も語られていません。
 もしかすると二谷は、”からっぽ” な人間なのではないでしょうか。夢中になれる趣味も、将来の夢もない、ただ生きているだけの人(別に悪いことじゃないし、そういう人はいっぱいいると思います)。
 ただ、人生に対して大きな虚無感を抱いている可能性がある、ということです。 

 また別の日に、芦川さんが二谷の部屋に来て、手料理を振る舞います。
 その日の夜、芦川さんが寝ている隙に、二谷は台所へ行ってカップ麺を食べます。

片手でスマホをいじりながら、八割ほど食べてようやく、晩飯を食べた、という気がした。初めて二谷の部屋に来た日、芦川さんが冷蔵庫の上に積まれたたくさんのカップ麺を見て、「こんなにたくさん」と目を丸くしていた。
(中略)
 気が満たされ、腹はそもそも減っていなかったけれど、残すと明日芦川さんに気付かれてしまうので、仕方なく残りも全部食べる。

本文(P.38)

 別にお腹が減っているわけではないのに、夜中にカップ麵を食べる。そして、晩飯を食べた、という実感を得るのです。
 この部分を読んだとき、芦川さんの手料理が、とうもろこしの炊き込みご飯、焼いたアジ、ニンジンを酢漬けにしたサラダというメニューでしたから、単純に20代男性の晩ご飯としては量が少なかったのかなと思いました。
 しかし、「腹はそもそも減っていなかったけれど」と書かれています。空腹だったわけではないということです。となると、この二谷の行動はどういうことなのでしょうか。
 冷蔵庫の上にカップ麺が積まれている、という描写があるので、普段からかなり頻繁にカップ麺を食べている様子であることは読み取れます。
 独身生活でカップ麺を食べまくった結果、カップ麺を食べなければ食事をした気がしない、いわば ”カップ麺依存症” というような状況に陥ってしまっているのかもしれません。

 二谷はやはり食にこだわりがあります。お腹が満たされればなんでもいい、と考えている人間は、お腹がすいていないにもかかわらず、わざわざ夜中になにかを食べたりはしないはずです。

わからなかったところ

 二谷がカップ麺をゴミ箱に捨てているとき、急にスーパーからの帰り道の場面が回想で語られます。
 芦川さんが灰色の猫を見つけて「猫っ」と声を上げます。そこから芦川さんが飼っている犬の話になります。
 二十行くらいの短い場面なのですが、まったく関係ない話にしか思えません。仮にこの部分がなかったとしても、物語にはまったく、なにも影響しません。
 しかし、作者はこの場面を、このタイミングで挿入するという選択をしたわけです。そこには何かしらの意図があるのだろうと思います。

 わたしが通っている大学の先生が授業で言っていたのは、
「小説には取り外し不可能な文章がある」
 ということでした。
 ストーリーに関係なさそうな、無駄に見える描写も、書かれてしまったら取り外すことができない、そういう文章があるのだということです。
 もちろん、本当に無駄でしかない文章もあって、そういった文章は推敲の段階で消さなければなりません。
 無駄だけど取り外し不可能な文章なのか、本当にただ無駄な文章なのか、この違いは本当に難しいところです。
 またその先生は、こんなことも言っていました。
「小説は無駄の集合体なのかもしれない」
 小説における ”無駄” とはなんでしょうか。


②おわり

 2回目にして、まだ40ページしか進んでいないのですが、このペースで大丈夫なのでしょうか?
 ちょっと不安です。笑
 「わからなかったところ」という項目で扱ったことや、その他の意見、この小説を取り扱っていほしいなどのリクエストがあれば、いつでもSNSかコメントでどうぞ。


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